2005-04-01から1ヶ月間の記事一覧

パンチカードとしての写真

クラウス「アヴァンギャルドのオリジナリティ」を復習。ピクチャレスクの問題にもかすっている。 バッチェンによるトルボットのレース論を読んでいると、カロタイプについて通常言われているダゲレオタイプに対する特性、つまり鮮鋭さではなくマッスがあると…

ボタニカル・アート

ボタニカル・アート―古代から現代までの花と人の文化史作者: リースド・プレイ,川本道彦出版社/メーカー: エム・ピー・シー発売日: 1990/09メディア: 大型本この商品を含むブログ (1件) を見るが届く。 挿画のみだが写真との比較などを考える。写真とリトグ…

所有にとりつかれること

講義講読の日。講義は3月の所有シンポジウムの話をして材料をだして終了。発明以来写真は2種類の所有にとりつかれていた、ひとつが現実の所有でありもうひとつが芸術としての所有である、しかもその根源にある写真には写真集という物の所有と被写体として…

ジュラルミンケース

会議大小とりまぜて3本。面談はさんで懇親会、そしてその二次会。 帰京中、再び東淀川駅などで人身事故とか線路立ち入りとかあって遅れて戻る。こんな時期だから駆け込み乗車とか普通は控えてほしい。これは常識問題だと思う。見ていて不安係数があがってし…

所有の話

所有の話を復習。

植物写真引き続き

列車事故の報道を見まもりながら作業。トルボットとイタリアの植物学者ベルトローニの関係を跡付けた論文を読む。これは事実確認のみ。ついでに植物の挿画を歴史的に辿った参考書を注文。あの採集的なレイアウトの植物写真が最終的に根付かず、植物「図」鑑…

葉の写真

写真の創成期に撮影された植物写真、初期の実践者、植物学との関係をあげつらっていく。アトキンス、その父チルドレン、フッカー、クーパー、ジョン・ハーシェル、ロバート・ハント、トルボット、皆大なり小なり似たような植物写真を撮影している。科学の分…

Photography in Science

論文集『:Photography in Science』所収のシャーフの論を読む。植物学における挿絵や標本の話も僅かだが指摘してある。ただ、いつものごとくの情報量に反して物足りないところもある。結論はまだだが、写真と科学の結びつきは自然の真実とか自然の詩や神秘と…

Revisions

アメルンクセンのトルボット論に取り組む。写真における記憶と知覚をいつものごとく分かりにくく解説した論考。 イアン・ジェフリーの『RevisionsISBN:094848960X』を読み返す。よく読むと、ウィーヴァーのイコノロジカルな写真の読みに反論をしている部分も…

スライドの語りと写真集の言葉

午前校正行為。午後会議のみで大学へ。 ついでにAbel and Altman『Sounds of Early CinemaISBN:0253214793』を持ち帰る。以前、スライドとその語りの問題を考えていたが、同様に今考えている写真集の問題とも間接的につながる。

敷居の上のトルボット

大学の雑用片付けてようやく作業。 ハンセンのクラカウアー論を読み進める。バザンと変わらず写真のリアリズムを根拠にした彼の議論は、しばしば批判を被ってきた。こうした読みからクラカウアーをもういちど別の次元で救い出そうとする企図がまず語られる。…

雑用ひとしきり

昨日今日と学会の雑用。ほぼ片付く。ハンセンのドイツ語論文「恐竜に喰われずに恐竜を見ること」をめくる。

フリッカリング

残像についてはすでにあれこれ調べたのだけれどもフリッカーについてはまだ調べが足りない。また、映画がとまることによって動くことを可能にするということももう少し正面きって議論しなければならない。

瞬く間

昨日大学に積読状態であった『ラ・ジュテ』の写真集を持ち帰る。詳細なショット表がついているというのと、フリッカー問題を考えるための解説が載っているというのがある。スチルのみで構成されたかに見えるこの作品は女性が瞬く時だけ僅かに映像が動く。大…

今期の木曜

3つほど授業。 1回生向け写真論入門講義、学部院生向け視覚装置論講義、同じく英独書講読。 最後に挙げた講読はクラカウアーのテクスト『映画の理論』を読むことにした。これはハンセンが序文を書いている版。まずこの序文を片付けて独英で平行して進める…

開始

■授業開始 これを書くと関係者から怒られそうだが、新学期初出勤。 …ガイダンスとかオリエンテーションとか新しいスタートとか新入生とか私はどうでもいい。とっくの昔にことは始まっているのだから、むしろいまある僅かな持ち金を掛け金にしてどこかに投機…

ゲームと植物

『InterCommunication』を購入。国立国際でのデュシャン・シンポジウムが再録されている。デュシャン・ゲームには僕は関心がない。というかチェスの数手先を読んでいるデュシャンの思惑にはまっているような気がするからである。ステレオ的知性という部分だ…

大食いと早食いの差異

大食い選手権の復活を見届ける。が、いまひとつマイナス×マイナス的要素が少なく落胆する。大食いと早食いは違う。気がついたら食べていた的な凄みがないのは少しさびしい。フィルム・ノワールについての文献を読み漁る。前の仕事がたまたまきっかけになって…

学会雑用。

カワウソとクルンメ通り

ここのところ表へ出るとかならず道案内せざるをえない。迷う技術のほうが大切だとは思うのだが。ということを言うとベンヤミニアンはベルリン幼年時代をすぐに口にだしてしまう。以前ベルリンを訪れたとき、動物園の川獺とクルンメ通りを探した覚えがある。

わんこそば的

ようやく原稿脱稿。 さて次の原稿である…。 夕方から知り合いの家で豚ハリ鍋。上手いハンペンもいただく。

中断

学会誌の編集会議。今日は作業停止。 会議あがりで飲む。12時タワーの灯の消えるのをみまもりながら帰宅。

学会誌の雑用をこまごまと。 さて書評の仕上げ。

新興写真と民俗写真

柳田國男と文化映画についての論文を読む。文化映画と民俗学に共通しているのは、その失われゆくものとしての地方を発見する身振りを示しながら、きわめて均質な一般的日本イメージを想像・創造しようとする視線であるという。興味深かったのは、1920年代か…

ポピュラー・モダニズム

例えばハリウッドの文脈にのったスピルバーグの市場での成功ばかりを見るのではなく、他方で『ショアー』が芸術映画というジャンルとして限定された興行的成功を収めたこと、これを『シンドラー』にたいして高踏的反応を示す批判的知識人たちはいかに説明す…

表象不可能性の表象をめぐるこわばりを

雑用。学会仕事と大学仕事。少し切れかけの日常。 さて昨日の続き。この映画に関しては次のような受容の力学が働いた。それは二元的対立によって要約することができる。『シンドラー』を『ショアー』に対立させ、後者が表象不可能なものを表象する問題に対し…

ひねりのひねり

ミリアム・ハンセンの『シンドラーのリスト』論を読む。 以前この映画で論文を書きたいと言う学生を指導したことがあった。ところがその学生はこの映画への表象の不可能性をめぐる批判については何も知らず、スピルバーグのヒューマニズムばかりを熱く語って…

際限のないバラのつぼみ

引き続き原稿。今度は『市民ケーン』。 外と内の参照関係をことさらにあげつらわれてきた映画、この映画は、その参照関係を外の内への折り返しと内の内への折り返しとが交錯して万華鏡のように相互反射しながら、映画の内と映画の外に浸透する欲望を駆り立て…