無理

 三宮で公開講座の打ち上げに合流して12時帰宅翌朝6時起きというのは少し無理があった。
 午前2で午後1の立ち講義日。午前はパノラマからリテラシーの話へ移行し、絵を読む視線の動きの話まで。ついでにレポート提出を受ける。提出し終わった後ざわつく学部もあれば、体力を使い果たしてこくりこくりと眠り込む学部もある。ま、映像をじっくり見てそれを解析する習慣をつけてもらえたらいいのだけれど。毎日通勤中にゆっくり読ませてもらう。
 午後は列車映画論の最終回。
 ポーターの映画の奇妙さと旅行ジャンルの問題を話してヘイルズ・ツアーから『大列車強盗』を見返す。作品の統一性や一貫性がご破産になるぐらいの奇妙な構築性をこの映画は帯びている、と締める。授業中に結構な地震があったそうだが、毎度のこと足元がふらついているのでそれさえも分からない始末。次回はシベ超含めた列車のエロスとか列車とアヴァンギャルドとか列車と身体性とか列車と定期性とか、いろいろな例オンパレードを前半にする。
 映画の授業をしていて最近思うのは、現在の映画館は上映ごとの入れ替え制の映画館ばかりになってしまい、従来の延々とエンドレスにプログラムを上映し続けていた映画館がほとんどないということである。最近の学生はあのループ状の上映形態をほとんど知らない。1回目の上映のラストに入り込み、2回目のラスト手前で席をたつとか、一日中映画館に座ってぼうっとしている体験とか、そうしたものが今では体験しがたいものになってしまっている。あの縄跳びのおはいんなさい状態のようにどこでも任意に入れるループというのも映画的経験のひとつなのではないのだろうか等と思う。列車=映画のショックの問題に関しては来期へ持ち越す。さながらこれも螺旋状の反復に近い。