自然の鉛筆論 10

photographology2004-12-11

■自然の鉛筆論

 ようやく10枚目《積み藁》。
 この図版につけられたのは次のテクスト。
 写真芸術の発見の一つの利点は、細部の導入にある。この細部は、芸術家がどれだけ骨を折っても自然から忠実にコピーすることのできないものである。芸術家は「全般的効果」に満足してしまい、「光と影」のあらゆる「偶発的な現れ」をコピーすることを試みない。たとえそれを試みてもとてつもない時間や労苦を要請される。細部の導入は、時として再現される光景に、期待を超えた多様な感じを与えるかもしれないのである。

 だいたいこんな感じの内容である。かなり控えめに写真芸術の利点が述べられている。芸術と写真の比較、細部の導入、これがテクストの核である。

 写真集に収められた図版の順序で考えれば、9枚目のテクストのコピー図版と11枚目のリトグラフのコピー図版に挟まれている点が重要である。7枚目の植物の葉も加えて考えれば、11枚目まで一枚おきにフォトグラム的写真が反復されているのである。
 また外観としては図版6との共通性にまず気づかれるであろう。そこでは写真の芸術との競合が語られており、光と影についての言及が同様に行われていた。積み藁に立てかけられた梯子は図版6と同様に強い影を藁に残している。藁の表面に多様に生じている陰にも視線は惹きつけられる。

 写真をじっくり見てみよう。
 しばしば言及されることだが、「積み藁」は抽象的な芸術へと至る道程の先駆的事例なのであろうか。あるいは当時の農村の現実の光景を偶々写しとめたものなのであろうか。たしかに6枚目での「オランダの芸術」への言及といい、そうした連想を惹起する部分はある。
 あるいは私たちはこの図版を見て彼の指示通りにとてつもなく巨大な積み藁のこちらを向いた三つの面の肌理の差異を感じ取り、背景から浮かび上がるこの繊細な表面に硬く落ちた梯子の影にも目を奪われるのかもしれない。
 しかし、「梯子」という被写体について掘り下げてみる必要がある。
 マイク・ウィーヴァーによれば、この梯子の立てかけ方は当時のいかなる実生活での用法とも異なる。梯子はこのような角度でこのような側面に立てかけられることはないという。
 いやその前に次のトルボットの写真を見て欲しい。《松葉杖の男》(1844頃)というこの写真には何気なく乱雑にあたりに物が散らかっている。しかしデューラーの《メランコリアⅠ》と対比してみようとウィーヴァーは言うのである。前者の前景の交差した枝と後者の前景の鋸、後景の梯子、石の配置、奇妙な対応がここにはあると。

 つまり何気なく置かれた事物がもつ象徴的な意味が梯子にも積み藁にも読み取ることができるのである。梯子は、聖書におけるヤコブの梯子、錬金術における梯子、フリーメーソンでの梯子など、光へ向かう階梯を意味しており、他方で積み藁は、『自然の鉛筆』前年に著された語源学によれば、藁とは草を刈り取ることを意味し、そうして刈り取る者は錬金術的伝統においてサトゥルヌスとされているという。前出のデューラーの版画との類比性の理由もここにある。…いかに人間が刈り取る営為を行おうが地上の生の営みとそこでの希望は現世的なものにとどまり、死すべき運命にとどまる。一方で光へと向かう階梯の先に、それを境界づける積み藁が位置する。当時の限られた受容者たちは、おそらくこうした写真を見た際に読み取っていたであろうと推測されるのはこうした象徴なのである。もちろん、象徴の読み取りはこれ以外にいくつかの可能性がある。
 したがって控えめな細部性の主張は、暗黙のうちに読み取られたであろうこうした象徴的コードとの緊張関係にあると見なすこともできるのである。