困る

 朝から某学会誌編集会議。論文へのコメントを聞いていると微妙な差異があったり、それぞれの立場が明確になって面白い。深夜まであれこれこの関係の仕事をかたづける。困ったものだ。
 
 先日も書いたが、私写真論について考えている。夏に出した心霊写真論はこの裏返しの議論であったことをいまさらながら再確認する。私写真論を書こうと思う。その手がかりは本当の私写真である。つまりそれは「私写真」という公の流通ルートをはずれてこぼれた私の写真の残骸を拾い集める作業になる。コンセプトだけは立てておく。
 私写真論あるいは写真史の議論に関して、受容という側面、言説という次元がかなり欠落していることは大きな問題であると思う。作者と作品の軸線だけがあまりに肥大していること、それが写真というメディアゆえなのか――そんなことはないと思うのだが――、写真はやはり俳句的なものであり小さな共同体で閉じた議論しかできないゆえのか、受容の側面をあらうことはそうした言説の力学に介入することになると思う。少なくともトラクテンバーグの議論ぐらいは共有できる次元が必要であろう。実に困ったものだ。

 デジグラフィについては写研の掲示板に書いておいた。これも困ったものだ。上記の心霊写真論でも少し書いたが、理論的スタンスが明らかになる踏み絵であることは間違いない。
 ふと見ると「誰も困らない」という書き込みに少し補足をしたくなる。僕もそういう書き込みで議論が流れても困らない。だからそんな書き込みに反応しなくても困らない。ただ、困らないという事態に困ってしまうことも実はある。逆に困ったふりをしてまったく困っていない人もいる。そういう事態に僕は困ってしまう。何のことか? それは推測してほしい。
 ああいうトークはもう少し写研の若手が切り込んで盛り上げてほしい。