アマチュア的問題のために

 昨日飲み会で話していてタイトルを失念した本。一応紹介。
 Grace Seiberling,『Amateurs, Photography, and the Mid-Victorian Imagination』,1986,ChicagoPress
 僕が今アマチュアという問題に係わらざるを得ないのは1830年代頃のアマチュアのもつ意味合いが19世紀半ば以降のそれとはまったく異なるからである。彼らの活動の多彩さや鮮鋭さはたしかに当時の経済的、階級的差異に支えられたものにすぎない。しかしその融通無碍ぶりが調べていると度肝を抜くことがしばしばある。
 他方、19世紀後半から20世紀初頭にかけていたるところで広まったアマチュア写真運動というものは、それなりに興味はあるものの、いかにも芸術的制度に回収してしまえそうな――それが鮮鋭な意識にいろどられていようが――狭いコミュニティによる合わせ鏡的な自己満足にしか思えない。肖像写真家やそのほかの実利的関心にしたがって写真に携わる人びとと一線を画して利益関心から外へ踏み出したという思いなしが実に利益関心に裏付けられている気がして19世紀前半と比べるとあまり議論する気は起きてこない。しかし、そうしたアマチュアが制度的な枠組みを踏まえて俯瞰され、狭いアマチュアをはみ出てしまうようなアマチュア的側面を抉り出されるのではないかという気も少しながらする。

昨日借りた本を捲る。
古本街の殺人 (創元推理文庫)』、『おたくの本懐―「集める」ことの叡智と冒険 (ちくま文庫)』。おたくを鮮鋭に切り出した東氏の議論も思い起す。何となく上記のアマチュア問題とつながっているところもある。