敷居の上のトルボット

 大学の雑用片付けてようやく作業。
 ハンセンのクラカウアー論を読み進める。バザンと変わらず写真のリアリズムを根拠にした彼の議論は、しばしば批判を被ってきた。こうした読みからクラカウアーをもういちど別の次元で救い出そうとする企図がまず語られる。彼女は挑発的にデジタル技術によって参照物なきままにイメージ製作がなされる現在、こうしたリアリズム論がもつ価値はどこにあるのかという問いを提起し、それをかわしつつ議論していくのである。お手並み拝見である。昨日挙げた恐竜視覚論はとりあえず合間を見て訳す。

 ウィーヴァーのトルボット論を読み返す。自然哲学者が科学者へと移行する敷居において、オカルト的伝統がその敷居をまたいでいるところが彼の論点の最も面白いところである。この間書いた、実証主義者としてのトルボットの裏面にあたる話。
 いろいろ読んでいると、考古学者という側面も興味深い、楔形文字の刻まれた石碑を写し取る紙という媒体、リトグラフ、コンタクト写真というつながりも重要に思う。ただ本という媒体についての議論をもう少し読み進めないと何ともいえないところがある。

 心霊写真で再び取材が来る。そろそろこのネタも飽きてきたのでUFO写真論とか考えてもいいと思う。その前に人形写真論。