合わせ鏡のずらしかた


「フラワー都市」砺波市へ。人っ子ひとりいないチューリップ公園でチューリップの群衆をかきわけ美術館へ。森村氏と佐藤氏のトーク・ショーを見に行く。佐藤氏のがぶりよりを森村氏がかわそうとするやりとりが面白くもあった。水入りで終了。簡単に言えば、モダニズム的かポストモダニズム的かという問題。写真のモダニズムのねじれかたについてはまた考えてみようと思う。

 もうひとつ。最初期のゴッホ「になった」作品が話題になり、そこには2種類の翻訳過程が介在しているという指摘がなされていた。つまり、炎の人ゴッホ物語のゴッホになろうとした俳優はいるが、ゴッホの自画像という表象になろうとした人はいない。しかも平面をご丁寧に立体に起こし、それから写真を通じて平面に戻す。この二重の変換をつうじて、いわゆる画家の人生にまとわりつく物語は端から回避する。また、女優シリーズでは、スチル写真となった女優の表象が同じように変換をほどこされる。ここでも写真というメディアが差し挟まれる。さまざまな自分になることで自らの内のいくつもの私になる、だから「自分をめぐる物語」という展覧会テーマは、物語的な私へと収斂するのではなく、めぐるに力点があるのだという、これが力説されていた。
…もちろんすべての鏡像は、作家自身の像にすべて収斂するではないかという突っ込みはある。
 付け加えておけば、写真というメディアがここでは重要である。合わせ鏡の私探しを裏切ってしまう契機が写真にはあるからである。…そんな意味で女優シリーズの目線のはずれた横顔写真は、もう少し見てみるべきかもしれない。鏡を斜めにずらすこと。

金沢はまたの機会に。リヒター展は10月26日まで。
http://www.kanazawa21.jp/richter/


ヘス論文を再び流し読み。パノラマの主題が歴史物に転換する際に、ドイツ各地での記念碑建造が流行したという当たり前といえば当たり前のお話。しかし風景、旅行、記念碑、パノラマ(ディオラマ)といういくつかの要素が交わったライン川パノラマを読む上では興味深い。

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