スクリーン

■東京行き
 表象文化論の学会に行ってきました。学会にも入りました。

 写真を研究していてしかも関西にいると不思議なことに気づく。
 一方でそれは、美学、芸術学、美術史、文学、映像学とそれぞれの分野のひとが写真を研究していて、毎度関西に来られたときにお話をしていると、どこか相互に――知らない訳ではないのに――隔てられているような感じがあるということであり、他方で逆に関西から東京に行くひとがなかなか少ない、ここにも薄い隔膜=スクリーンがあるような感じがすること、この二つである。
 どちらも問題があり、その理由は分からないわけでもないけれど、関西からはなるべく異なるところにいって話を聞いたり話をしたりするのが、単純で時間もかかるけれど、必要な交流だと思う。表象文化論学会はそういう意味で斜めにひとをつないでくれる集まりなのだろうと僕は理解している。実際同世代の研究者で知り合うひとたちが実はこの学会の所属であることは多いし、何より刺激になることも多い。またなぜか関西にいて隔絶されているひとたちが知り合う機会にもなったりする。
 実は、参加することに決めたのは、シンポに遊びに来てメディエイターになってくれたひとたちが案内をくれたことが大きい。また、前回参加できなくてウェブであれこれ当学会について書かれていたのを読んだ時に、行かずにあれこれ言わずに行ってからあれこれ絡めばいいのにとウェブで書いたこともあるから。研究会ではなく学会ひとつ立ち上げるのは、相当な覚悟と持続力が要るし、また立ち上げ時期が一番面白いということもある。そこに絡まずしてあれこれ否定的に言うのは面白くない。
 数年ぶりに会うひとやおめもじづくしで少々疲れたけれど、刺激的な部分もいくつかあった学会だった。それについてはぼつぼつ感想をあげていきます。

■スクリーンのパネル
 2日目はスクリーンのパネルにずっといたのだけれど、パノラマ&ステレオの話があちこちで絡んできて、いろいろ指摘したいことがあった。
 パノラマとは二重に湾曲している、つまり一回転していることとキャンバス自身の重みのために展望台にたいして少し張り出してきていること、だからパノラマのカンバス=スクリーンはまったくの平面ではないということ。そこでは目と手が分割を被るということ。そしてパノラマの知覚は実は複数の小さな面のダイナミックな運動にも本質があるということ。それはステレオ的と呼べるような知覚であるということ。ステレオスコープのフレームは絵画のフレームとは違うということ。パノラマはまったくの上からの視点ではなく、中途半端に高い視点からの視覚であるということ、これが指摘したかった。パノラマもステレオも19世紀的な装置であって、それがもう少し明確になるとパノラマ的ステレオ的なものが議論のいくつかを別の形でつなぐことになったと思う。
 パネル全体の構成を表象の光学と表象の力学といちおう区別して、その間の隔壁をスクリーン的なものととりあえず設定しておいて、スクリーン表面の肌理の摩擦や透過性非透過性を軸に立ち位置を異にする論者が議論するともっと面白くなったのかもしれない。それはパノラマとステレオに憑かれている者の見解として。

 それと、、、メールで何度かやりとりをさせていただいた長谷さんにはじめてお目にかかる。飲みにいきたし、されど雑用もあるので泣きながら帰還。

 関係者の方々、久々に会った方々、お疲れさまでした。