写真うた2

■写真うた
写真うた引き続き。エイジャは購入。kaerusanの書き込みであったように「ペグ」が写真うた。くるりは「冬の亡霊」のみ購入。後者の「コンパイルしたアルバムから」冬の亡霊が現われるのだけれども、このアルバムは写真かどうかは定かではない。ちなみにくるりベストのジャケは京都タワー
Aja NIKKI(初回限定盤DVD付) ベストオブくるり/ TOWER OF MUSIC LOVER (初回限定盤)
 ところで写真が歌詞のなかに登場して、過去への想いの媒介となるのは比較的新しいことだということに気づく。だいたい70年代半ばくらいなのかもしれない。おそらく75年前後の写真曲には「木綿のハンカチーフ」と「卒業写真」がある。ただしこの二曲、肝心の歌詞を読んでみると、前者は

「恋人よ 今も素顔で 口紅もつけないままか 見間違うような スーツ着た僕の 写真 写真を見てくれ」

と現在の変わった僕のイメージであり、後者はといえば

「悲しいことがあると開く皮の表紙/ 卒業写真のあの人はやさしい目をしてる/ 町で見かけたとき何も言えなかった/ 卒業写真の面影がそのままだったから/ 人ごみに流されて変わってゆく私を/ あなたはときどき遠くでしかって」

というように、一見すると不可逆的で取り戻せない過去を唄うと同時に、現在も過去の写真と変わらないあなたの隔てられた存在が実は問題になっている。もちろん「卒業写真」パラダイムが始まったのはこの頃からなのだろうが。
 実は写真を見て過去の自分に固執する写真体験の歌は詠ちゃんの「写真の二人」ではないだろうか。これが76年。
 過去に固執しないもの/できないものの写真うたの例を探す。

ノスタルジア
 引き続きノスタルジア。後悔、哀惜、悔恨から追憶の物語への変容を説明する西村氏の説をまとめる。追憶とはいまの地平から隔てられ、なおかつ始まりと終わりを持つ全体として構造化された物語を語ることに本質があり、そこから抑制された静観や美的な享受も生じてくる。失われたものを今はないものとして象徴化できず重苦しい憂鬱のもとに何度もそのイメージを手に取るのではなく、あるいは、かつてあった今はないものを今の地点からおわったという現在完了形で語るのでもない、過去から二重に距離を置いた過去完了的な構えが追憶ということになる。
 写真は、ある意味でそうしたいまと切り離された過去を自動的に呈示してくれる。追憶の物語が容易に生じてくるわけである。写真うたがそうした過去の物語を紡ぐことは当然のことといえば当然のこと。たとえ物語化にいたらないまでも、失われた過去のものを何度も手にとり、歌う=語ることが写真うたのひとつの極になる。写真が歌を含め、さまざまなコード化を被るひとつの理由はここにある。四方田氏のかわいい論の話もここに位置づけることができる。いわばこれは写真を祓う、写真を鎮める作業。

 しかし、写真は、フォトエッセイなどの工夫でもこらさないかぎり、物語化をすぐに壊してしまう。そうした写真というものの時制や時間のせきとめの別の展開や、過去完了という距離化への抵抗が写真うたのもう一方の極にあるのではないか。それは、必ずしも現在を離れて過去へ没入してしまう構えではない。そういう写真というものにとどまるノスタルジア、病的だけれども現在と過去が時間錯誤的に交錯するような写真の受容の様態が「かわいい」論の二本目の軸になるのかもしれない。

そこまで行き着くかは分からないがとりあえずメモ。