秋の駅地下

今日も明日も大学。
駅地下では紅葉客のリュックおじさんおばさんが多く、
彼ら彼女たちの次の方向の予測のつきかねる激しいブラウン運動をかわしつつ出勤する。
心の中では、半泣きになった山下慎司のBGM『ヒーロー』がテーマになる。
テンションは必ずしもあがらないが。

■セクーラ小論7
 それはさておき、セクーラ。
 セクーラ作品を、70年代のコンセプチュアルな芸術作品における写真の使用の主要なモデルのいくつかと比較すれば、こうしたモデルからの彼の批判的な逸脱の諸側面がわかるだろう。グレアムやルシャのように写真的スキルの単純化に陥ってしまうこともなく、ベッヒャー夫妻のように「現実的」なものを描出するための厳密な方法として写真を復活させるのでもない。

セクーラの展開する弁証法的な方法は、彼による写真スキルの規定にさえも浸透している。例えば、『フィッシュ・ストーリー』で見られるように、科学写真の微視的なイメージからパノラマの巨大サイズの次元に至るまでの幅の事実やディテイルを記録するという写真の伝統的な能力が、用いられることがある――この写真集の表紙、あるいは展覧会のポスターには、傾斜計のクロースアップ写真と貨物船からの壮大な眺めのパノラマ写真との並置が見られる。セクーラのパノラマ的なものへの強い関心は他のところでも口にされている。おそらくその視覚的情報の最大化とその際にパノラマ的なものがもつ本質的に反モダニズム的な含意がそうした関心の由来であろうと思われる――。

 こうしたスキルの実行によって強調されるのは、写真の帯びる、現実的なものに対する独特な傾向であり、また同時に、そうした写真メディアとメディアの使用法の双方に信頼を置いていた過去の写真家たち(例えばウォーカー・エヴァンズ)を想いおこさせることになる。彼らは、そのようなスキルを用いることで、現実的なものの記録作業という課題に取り組み、しかも社会的現実の理解を展開する可能性に信頼を抱いていたのである。
(以下続く)