ステレオ二題

使用上の注意。私の背中にもついていそうである。
 「あまり急かさないでください。爆発します。静かに見守りましょう。」
とか書いてありそうな気がする。
このはてなセリフ、写真へのテクストの係留/中継作用の理解のための練習問題になる。ご覧あれ。写真で一言系。

■ステレオ熱
 子規のステレオ話を読んでいる。結論がすごい。立体視のできないひとには近視のひとが多く、そういう「近眼のひとはどうかすると物のさとりが悪いところがある」と言い切る。遠視のひとが世をさとっているかというとそうでもないので、極論だが、複眼視的な力の抜き方とそのうえでの熱のいれようを物のさとりと見なすなら、それもそうだろう。
 病床で世界を鼻先に近づけてそこに入り込んでしまうステレオ熱にもうなされていた子規。彼は写真について案外多くのことを語っている。
もう少し文献を漁ってみる。

■ステレオコンシャスネス
一年生が出してきたステレオ写真の感想を読んでいる。今年の新入生は変にステレオ的リテラシーがあるので基礎編につづいて応用編を出し、その効果を書いてもらった。ウォーホルのコーラものとか、壁紙ものとか、ウェグマンの犬ものとかも用意したのだが一番人気はこれだった。

…実はこれはステレオ写真ではない。こういう研究をしていると、送られてくる絵葉書にはこういうものとか双子的なものとかというステレオアンテナを反応させるものが多く、その一枚。もちろんステレオコンシャスなものだと意識して、これ以外にも小川信治展の図録からも無理やり課題に選んでいる。
 そういうわけで、ステレオでないものにステレオ的に反応してしまう反応のよさに喜んでしまう。たぶん彼らにはザ・たっちを立体視しようとする構えがある。
 感想をいくつか引用したいが、まずはこちらをぐっとつかんでしまったこの感想。

この作品を立体視して、連想したのは、クリスタルガラスのかたまりの中に砂粒ほどの細かさで彫刻された置物である。360度どの方向から見ても、立体的に見えるようになっている。立体視した画像の、ミニチュアのように立体的なのに、色もなく、実体も無いという性質が、透明なクリスタルに収まった像を連想させたと思われる。

ステレオ写真にあるあの静止した心霊性の雰囲気を捉えている。
あるいはウェグマンのこれ。

左右の像それぞれが「単独で立体感と奥行きを表現している」床の肌理や線、それが混ざり合い位置の異なる犬がステレオによって「薄っぺらい犬がたっているように見え」つつ妙になまなましさを帯びてくる。それを言葉にしようとしている構え、これも納得。

セクーラ、今日も無理だった。