アルバムの手触り


六甲山遭難ニュースには不謹慎だけれども笑う。捜索願の写真が焼肉を食べている写真だったというのもツボに入る。不謹慎なのは承知ですが、とりあえず大学でのバーベキューでは遭難しませんので。


■雑用

 朝ゼミ午後会議会議会議ほんでガイダンス雑用。
 学生の発表はワーグナー、演劇、CM。
 とにかく時間がないのでちゃっちゃとさばいてしまったので
 さらに議論したいひとは明日のおでん&鍋大会で。

 ワーグナーはじゃあ出汁にするのは何なのかということと、全体の流れをもう少し厳密に組み立てておくこと、演劇は生々しさのありかを比較によってもっと相対化し、概念装置によって生々しさを取り戻すこと、CMは基盤にするCMの基本形と現代のCMの変化形をうまく語る段取りをきちんとすること。


■日本カメラ1月号 で連載が始まりました.目次はここ
 読んだひとは、なんという少ない字数と思われるかもしれませんが、これもステレオダイアリー未満ブログ以上のスペースでどこまで話のネタフリオトシができるかの実験のようなものです。ザ・おじさんアマチュアカメラ雑誌で、それなりに作戦をくみながら話を書いています。余裕のあるひとはご購入ください。

■Forget Me Not 7の1
 アルバムもダゲレオタイプと同じように、その触覚的な覆いから話を始めなければいけない。表面の浮き彫り模様の表紙、細かな模様、、、。現在のプラスティック製のアルバムでもそうしたちょっとしたふくらみや触覚的な手がかりを残している。
 19世紀のアルバムには、これまた装飾入りのスタンドがついているものもあった。そこには鏡が備え付けられており、観者はその据え置きアルバムと自身の顔を交互に見比べることができる仕掛けになっていた。さらにはアルバムのスタンドには、祭壇のようになったものまであり、そうなると世俗的な働きと宗教的な働きの境界が曖昧になりさえするのであった。
 もちろんアルバムは手にとって見るものである。稼動的な部分をそなえた触覚的対象であり、視覚に加えて触覚が、そのための写真と他のものとの組み合わせがアルバムの享受においても重要な核となっていた。アルバムに触れ、そのページを捲る、その時写真は弧を描いて文字通り動き、比喩的には写真によって構成されたシークエンスによる物語のなかを動きはじめるのである。
 アルバムが誘発する言葉も重要であろう。アルバムを見せながら語る言葉、集まった友人や家族への言い訳めいた言葉、交わされる物語、想いおこされる出来事、伝記的なものの発生。。。無数の声がページのうえを行き交ったにちがいない。
 私たちが博物館でガラス越しに見ているアルバム、その背後には写真アルバムを活性化し、その経験を形成していたいくつもの話し声や笑い声がひそかに鳴り響いているのかもしれない。

 アルバムはその持ち主に、写真をどのように提示し、レイアウトするかを決定し、デザインする機会を与える。イメージはシークエンスとなり、キャプションがつけられ、個人の趣味で装飾を施される。ここでも言葉の付加が行われる。短い説明、長い注釈、韻文、いずれのテクストも、写真をかっえしかし、私たちの感情を煽る働きを担う。(以下続く)