ドーンとスカンス

昨日は朝から実習かける1,5コマ、講義講読1コマずつ。まだまだ学生が落ち着いてくれるのを待つ4月。
 今期はIMAXに行くことにした。

■時間と映像の物語
 ドーンの『映画的時間の出現』とスカンスの『幽霊メディア』には似ているようで遠いエピソードが登場する。ドーンは冒頭でキネトスコープがまだ新しかった時期に『スクリブナー』誌に掲載された次のようなフィクションに言及する。
 1895年スクリブナー誌に『時間のキネトスコープ』が掲載される。物語の主人公は唐突にキネトスコープが並べられた部屋にいる。覗き眼鏡をつうじて見られるのはサロメのお話、『トムおじさんの小屋』『イーリアス』『ドンキホーテ』『ファウスト』、カスター将軍の大虐殺等などである。次から次へと覗く主人公。ふと気がつくと傍らには身なりのよい紳士が立っている。この男は、上述の出来事にことごとく自分はいあわせたのだと語る。
 男は、さらに主人公の過去と未来の映像も見せてくれると言う。ただし対価が必要だ、10年見せるごとにお前の1年分の命をもらいうける、と。主人公はこの申し出を拒否し、暗いトンネルを抜けてようやく戸外に出る、大通りに自分がおり、街灯に照らされて傍らでは大音響をあげ蒸気をあげて列車が通り過ぎている、、、現実の世界に彼は戻ってきたのであった。
 たしかにこうした時間旅行ものの話は数多くある。しかしここで重要なのはあのキネトスコープという他の場所、他の時間を見る機械を介して時間への不安で不確実な経験が語られるところである。またその鑑賞の時空が、場所なく場所、時間なき時間だったということ、そしてようやく戻りついた現実の世界がキネトスコープに並ぶ数々の技術によって意味されていることも重要である。
 この話は、当時登場した映画とその時間を把捉する能力の帯びる不気味さをかもしだしている。時間を記録し、時間をアーカイヴ化し、別の時間にアクセスすること、それがある種へテロトピアとして描かれる。

 他方、スカンスが挙げる『無からの10チャンネル』(1985)は次のような話である。
 とあるTV修理会社がある家の12歳の娘レイチェルのうちにやってくる。何事もなくTVをセットして戻っていく。しかし、それ以後このTVには異常が生じてしまう。
薄暗い部屋に煌々と金色の光がほのめく。それは鼓動のように脈打ち部屋全体を光が満たし、催眠的な効果を及ぼすにいたす。そしてモニタに未来が写るようになる。
 後にレイチェルがその修理会社を訪れ、行きがかり上社内を見学することになる。通された奥の部屋には無数のモニタが並び、過去も未来も、私的なことも公的なこともすべて、そこには映し出されていた。この物語の結末は、テレビによって自身の母親の死をレイチェルがすくった後、同じ修理会社が10チャンネルへの接続を遮断する、というもの。
 すべての時間と空間が映し出される電気的遍在性、それがこの物語では示唆されているのだとスカンスは言う。
 この二つの物語の違い、それを今期は問題にしていく、、、と授業で来週話しをする予定。…て話してしまっているのだが。