インフル補講


この間、先のインフル休講の補講続き。

■わんこそば業務
水曜は、学生の発表5本を聞く。深瀬昌久についての発表は、論全体の大枠が見直しが必要かもしれない。また私写真という分かったようで曖昧で一人歩きしている言語を徹底して批判的概念にしてみてもよいと思った。オペラの発表、エヴァ・ヘッセの発表、ジェイムソンの発表、ヴァレリーの発表もあれこれコメントする。ヴァレリーの語彙、蜜蜂、クラゲ、渦巻きなどは読んでみると案外面白い思考の契機になりそう。
月末には一日に9人も発表するわんこそばみたいな発表会もある。

■ヴァナフォト
木曜はヴァナキュラー写真について喋る。今回は『ピアノ・レッスン』の冒頭のダゲレオタイプを口火に話しはじめる。他にも『息子の部屋』とか『ヤンヤン 夏の想い出』でもよいのだが。関心のあるひとは、PGPで以前書いたバッチェン紹介とか読んでほしい。
ピアノ・レッスン [DVD]photographers'gallery press no.6

■胸板論
金曜の講義はジオラマ論からキング・コング論に移行してひとまず終了。胸板論とか筋肉表象論にも展開できそうな素材がごろごろ出てきた。シュワルツネッガー論も書けそうな気がしてきた。ひとまず『ファイト・ピクチュアズ』とかも夏の間に消化したい。
Fight Pictures

■ブラガリ
で、以前書いたルイゼッティ氏の講演を聞きに京都へ。
ブラガリアについては、英語では二冊しか関連文献が無い。リスタの英訳とブラウンのマレイ本のみ。こうした参考書はどちらかというと歴史的記述が主であり、あるいは研究書の別の軸がメインになっているために、ブラガリアの写真の思想的背景まで穿っているとは言い難い。だから、ルイゼッティ氏のように、当時共有されていたベルグソニズムから彼のぶれた写真を読み解く作業は新鮮だった。彼の写真は、心霊写真的であり、心霊写真ではない、その両者の隔たりこど時間の複合体の表象としての写真が目指していたことであり、私たちがそれを読み解く際の隔たりの発火点になるというような話。
 もちろん、ディディ=ユベルマンのマレイ/ベルグソン論にたいする立場はどうかとか。マイブリッジ/マレイとドゥルーズ/ブラガリアという組み合わせに関するさらなる考察は、もっと話を聞きたかったのではあるが。
Picturing Time: The Work of Etienne-Jules Marey (1830-1904)Futurism and Photography

ということで久々のメモ。