荒川展

■荒川展
昨日は国立国際で荒川展を見学授業したのち、神戸に戻り博士論文報告会、その後は海外に行く院生の壮行会。
荒川展は予想以上に面白かった。同じく会期終了間近のルノワール展の観客もなだれこんできて、とまどっている有様も、コレクションコーナーで会田誠が地味に展示されているのも、なんか現在のある種の症候のようであった。荒川氏の意味のメカニズムはヨーロッパで触れる機会があったけど、あまり真剣に考えていなかったので、それ以前から考えるためのいい機会になった。
荒川初期作品については来週授業で少しだけ喋ろうと思う。
荒川修作の軌跡と奇跡ヘレン・ケラーまたは荒川修作

■承前
というわけでひきつづき2,3本読み進める。モンザン論文を読みかけなのだがなかなかまとめる時間なし。
 ハンセン論文は、映画というメディアがモダニティとモダニズムを無境界化する媒体であり、そうした意味でハリウッド映画を再考察する可能性を提示した論文。いわゆるアメリカニズムのもとで捉えられる古典的ハリウッド映画は、連続性編集や効率性、首尾一貫性などの側面と同時に、肉体感覚的な物質的表層を契機とする側面を帯びている。前者については、古典的映画をこれまで映画学がどのように価値づけていたかをたどり直し、その伝統的連続性を穿つ歴史的側面をとりださねばならないし、その際にはこうした体系的で新古典主義的な説明の外部にある諸問題に目を向け、なおかつ先の古典的映画のもうひとつの側面を前景化しなければならない。モダニティの諸活動から滋養を得て、グローバル化の過程のなかできわめて折衷的で偶然的な実践でもあり、観客の受容における感覚的再帰性潜在的に帯びているメディウム、そうしたヴァナキュラー・モダニズムの担い手として古典的映画を捉えなおそうとする。もちろん肝心のところはいつも抽象的なので、これは最近出た著書を読むしかなかろう。
 畠山論文は、そうした意味で具体的な素材があり、ハンセンの議論を展開する方向を明瞭に示している。
エイゼンシュテインのディズニー論を出発点にして、映画におけるヴァナキュラーを受容者の身体を焦点にして議論。ロシア映画に見られるモダニティとモダニズムの関係、その境界にアメリカニズムという前衛的モダニズムでありながらそこからずれる部分をもつ動向が据えられる。たとえば、エイゼンシュテインの全能性/原形質の脱形象化/純粋な時間性、これが生理学的な水準に引きつけられた言説。アメリカニズムという結節点から紡ぎだされるのはこのような脱境界化的経験なのである。また、アニメーションの考察としてもこの論考は面白い。アニメーションをジャンル外、補集合のものとして捉えるばかりでなく、もっと広範に動くイメージと受容意識の相互作用を意味するアニメーションという意味で捉えること。包括的概念としてのアニメーション、生命の比喩、不可能なもの、情緒的ショック、受容と送信の逆転、情動、観客の身体の動態化、無差別性、物理的世界にも純粋な想像にも還元できない不在の運動、見えないもの、、、こうした論点を経由して最後はクラカウアー/ベンヤミンの考察に着地する。「反射」を超えた、ただし「反省」ではない、かといっていわゆる通常の「再帰性」でもない集合的ミメーシスの可能性。

唄論文はキリスト教的イコノミーとの対立や戦略としてバタイユを考察に引き入れるうえで参照点になる。
増田論文は身体鍛錬実践、その写真表象を中心に、娯楽、科学、芸術的表象との拮抗を議論した論文。モダニティ、モダニズム、写真の両義性、それぞれの実践のほつれをつなぎあわせる写真のメディウム性が論点。
あと2本残っているがひとまずここまで。