蝋人形写真論

photographology2004-08-28

 ノーマン・ブライソン,キャロル・アームストロング、ナンシー・スペクターの蝋人形写真論を読む。昨日書いたポートレーツ掲載のエッセイである。
ひとまず今日はブライソンの論から。

伝統的な肖像画という理想我の拠り所、それは筆致とその表現主体の内面とが支えとなっていた、永続性や無時間性を目指す表象体系であった。ところが19世紀後半においてこの体系が失効し、肖像画の目指す理想化や永続性への方向性とは逆の、その脆弱な物質性をあらわにしてしまう像が登場する。それが蝋人形というもうひとつの身体であった。
 蝋人形の媒質となっているのは言うまでもなく実に脆い蝋であったということ、またその展示の特色の一方が居並ぶ王侯貴族たちでありながらも他方で観客の関心を集めたのが残忍な処刑などの身体の断片化の現場であるということ。それゆえに蝋人形は近代化の危機的な時機の身体を明瞭に示していることになる。
 この、無時間性とその阻害という二種の異なるリズムをそなえた蝋人形を写真に収めること、それは一面では物質の腐朽をくいとめることなのかもしれないが、別の側面から見れば、逆に写真はこうした近代化の主要な担い手であり、旧体制の身体や意識を根こそぎにして異なる速度へ巻き込む媒体でもあった。したがって蝋から銀へと再翻訳された身体はなおさら近代化のなかの身体をあからさまに表象していることになる。
 だが杉本の写真は、近代的な「点」としての時間に抗して、複数のリズムとスパンの持続した時間を写真に呼び込む実践を行っているのである。
 まとめるとこんな感じだろうか。
 蝋人形と写真という二種類の媒体は、近代化の過程のクリティカルな地点を指し示し、蝋人形を写真に呼び込むことは、蝋人形の帯びる複数の時間と写真の伴う複数の時間の複雑な絡み合いを明るみに出すことになる。杉本の写真はたしかに常に複数の時間が折り重ねられているものが多い。

 今日の一枚、扇形の写真立て。