視覚的無意識にコメント

 視覚的無意識にコメント求むとのこと。
 ⇒昨日のコメントと次の日録を参照 http://d.hatena.ne.jp/morohiro_s/20041024

 聴覚的無意識と視覚的無意識の比較については準備立てがないのでなんともいえないのだが、以下感想のようなもの。

 写真を語る際に「視覚的無意識」を語るのは常套句となっている。ソースはベンヤミンの複製芸術論。写真による記録の過剰さと均一性や非選択性と日常的視覚の選択性や意識の志向性とを対比させる議論は、ここに由来しているのかもしれない。あるいはそこから写真のおぞましさや不気味さや他者性を引き出してくることもできる。
 ただし、「視覚的無意識」をどのような文脈で用いるかのほうがむしろ重要な気がする。それを都市論や写真論とともにある文脈に置いてみるのか、それともメディア論として『グラモフォン、フィルム、タイプライター』のように精神分析とともに語るのかとか、一般化したいのか特殊化したいのかとか。
 たぶん厄介なのは、視覚的無意識と口にするとそれで話が終わってしまうところなのではないだろうか。実際、かなりの幅の種類の写真に関して、この言葉は使えてしまう。そしてこの概念が口にされると(定義すらなされていないのに)話は終わってしまう。無差異な表面としてのこの語にすべては還元されてしまう。むしろ何らかの差異化が必要なのかもしれない。
 以前、僕がやろうとしたのは――まだ全然満足のいくものではない――そうした常套的な停滞の先に進んでこれを構造化できないものかという問題であったような気がする。装置をモデルとした、ある歴史的文脈に属しながらそれを反省しようとした装置論として抽出できないかと…。
 だからこの言葉は論者が立てる枠組みのほうがむしろ重要だと思う。それこそ論者の(無)意識が中心にあるというぐあいに。
 こんなので返答になってるのだろうか。〉佐藤氏


あとは書きかけ