自然の鉛筆論 その5

photographology2004-11-27

 5枚目の写真。《パトロクロスの像》。
 これもトルボットの邸宅で撮影されたものである。
 ここにつけられたテクストは次のようなものである。
 話は写真の用法から切り出される。立像や胸像などの彫刻は写真によって再現することができる。彫刻は白であるがゆえにこれも撮影には好都合な条件になる。写真による彫刻の描写は無限に近いヴァリエーションを可能にする。その理由は2つある。ひとつには、彫刻は光との関係でさまざまな角度――正面とか4分の3正面とか――を可能性として選択することができるということがあり――台座を回せばよい――、他方でカメラとの関係でさまざまな距離を採る可能性が生じることがある。こうしてひとつの彫刻から無限に近いヴァリエーションが生じる。これがテクストの内容である。

 さて、同じ胸像を被写体としている写真は、17枚目にもある。そこでは胸像はほぼ真横を向いている。どちらの写真も光は正面上方から当たっているゆえこの2枚の写真は、一番目のヴァリエーションの事例となっているというわけである。
 写真そのものは台座ぎりぎりで切り取られ、画面中央に暗い背景から白く浮かび上がる対象が配され、縦横の長さはほぼ同じの正方形のフォーマットになっている。被写体となる彫刻の形状にもよるが現在から見れば、証明写真のような型になっているわけである。しかも律儀に被写体の真正面と真横という角度を選択しているのも妙に気になる。彫刻を芸術的に撮影しようとすれば、別の可能性もあるのではないか。

 芸術品を写真で複製すること、それは必然的に手の制作物であるものと機械的複製によるものとの間の対比を喚起させる。これは絵画や版画を複写した他の写真でも認められる論点である。
 また、目録的な3−4の図版と比較すれば、両者ともに同じように室内で撮影された「もの」の写真ではあるが、目録的な棚の写真とは違い、ここには無限のヴァリエーションが生じる。被写体が三次元的立体だからである。つまり棚の写真は一例ですむが、彫刻の写真は無数に可能性がある。しかも、トルボットはその際に、第一の要因にもとづく複数の写真を「第一のヴァリエーション」に並ぶ「第二のヴァリエーション」という表現で記述しているのである。
 さらに言えば、3ー4ー5の図版がいずれもトルボットの所有物を被写体にしていることも忘れてはならない。教養ある知識人として彼が属していた文化的コード、その所有がここで含意されていることも、読者層を考えるならば記しておかねばならないだろう。パトロクロスについても、言及の必要性がある。ただ手元にあったというだけの理由で片付けてしまうことはできないだろう。

今日は研究会。デジオにも出る(http://www.think-photo.net/mika/dedio/)。ま、酔っ払いトークの垂れ流しです。