気になるずれ


 以前、藤原ノリカの賃貸マンションCMについて書いたが、あの新シリーズ、けっこう複雑である(http://www.leopalace21.com/corporate/cm/ただしウェブ公開終了)。
 前シリーズでは行き場のない彼女の浮いた状態が表現されていたのに対して――某電器メーカーCMでは文字通り浮いていた――、今回は「先生」なるシチュエーションでの登場である。一見すると新社会人や大学新入生にたいして人生を前向きに応援してくれる師として、すっかり居場所を引き受けた役割を彼女は手にしているかに見える。ところが、テンションをあげすぎの新社会人と「お金がかかるの」と叫び、これまた唐突に声を荒げる新入生にたいして、彼女は引き、戸惑い、ぶしつけに笑い、こともあろうに、その合間にふと「天井が高い」などと何かしら外れた言葉を口にする。もちろん先生という役割は写真家としての活動を基にした講演などに見られる文化人路線をくんだものかもしれないが、このCMでは先生という役柄が浮いてしまっている。たぶんこれも確信犯ではないのだがとても気になるCM。
 これに対して、米涼はといえば、いい部屋探しのCMでは濁音まじりに「い゛や゛」と叫ぶやいなや男性を小脇に抱えて宙に舞い上がり(http://www.kentaku.co.jp/tvcm.html)、お菓子の宣伝では譲二にサラシ巻かれつつ濁音まじりで商品名を外れた調子で口ずさむ――ウスマキがウズマキに聞こえてしまう――。歌を棒読みにしてしまうこのダミ声、なのに身じろぎひとつなしの仁王立ち。迷いなくずれている。ズレを引き受けたということなのか。このサイト(http://open.meiji.co.jp/sweets/chocolate/usumaki/)を参照のこと。
 以上、気になる2例。
 2人が別のコーヒーCMで交代劇があったことを思い出せばさらに話は続いていかざるを得ない…いや今のあの3人も気になってしかたがない。


■業務
 発表ゼミと講読。
 発表は芸術の商品的価値と広告とバルトの写真論。商品的価値が芸術的価値の肉をえぐるような論述が必要であり、広告のイデオロギー批判論を現在的視点から醒めた分析をする必要性があり、バルトの写真論のテクストについての読み手の視覚的無意識を解析するぐらいのリーチが必要であるように感じた。もう少し言説の力学にまみれないと本人も聞いているほうも物足りないのかもしれない。
 講読はクラカウアー論の映画の理論を扱ったところ。ようやく1927年の萌芽的論文に手がかかって後期は終了。進まないことこのうえなし。講読というのは学生がやった分しか応えることはしない。

 写研の新体制について若手と話。新機軸を立てていくことにする。