標本的

1時過ぎから会議。終わると8時。またもお土産仕事をもらう。

 会議中、シャーフのトルボット本をめくる。たしかに植物やレースのフォトグラムものは押し花的標本性が色濃く残っている。エックス線とかレントゲンまではいかないが、葉自体も透けて葉脈の細かな柄や模様を容易に見てとることができる。考えてみると、こうした映像は、対象が不在のところに結果が残り、対象が存在したところには結果の不在が残るという面白さがある。そしてレースという対象はまさにこうした反転の結果がレースそのものになってしまうという面白さがある。トルボットの知人たちはレースのネガを見せられて現物と見間違えたとかいう話もある。これはもうどこかに書いたか。レース産業とかにも思いはめぐる。
…ちなみにフォトジェニック・ドローイングとは実は焼出し法のことで、厳密にはフォトグラムでなくてもカメラの中で撮影したものも指す――この点モラの『キーワード』は不正確である。『自然の鉛筆』は撮影はカロタイプ、ただし複写はフォトジェニック・ドローイングを用いている。現像法は露光時間も短いわりに鮮明な画像が得られるという反面、そのプロセスが複雑であるというのがその理由である。二種類のコピー法、必ずしもそれは対象との密着度合いからでは差異化できない。ここらへんもう少し考えてみるべき。

 芸術と所有について考えろとのこと。ダゲレオタイプとカロタイプの所有の違いから見えてくるものはないか等、考えはじめる。ただ現在的な視点がここにどう絡むかが重要である。

 雑誌の特集の呼びかけ原稿を考える。微妙な仕事である。

書きかけ