半透明という想定

 すっかり忘れていたが学会若手発表原稿チェックの仕事。明日明日。

トルボットの写真集をカロタイプという新たな写真プロセスの使用法や応用法を説明した宣伝書だという見方がある。他方でシャーフのように一枚一枚の写真の手仕事的な美的特質を説く見方もある。前者にはテクストにたいしてイメージが透明な指示機能を担っているという想定があり、後者にはテクストからイメージを自立させる美的機能を負わせる想定がある。しかし、この間に割り込んでしまったらどうなるのだろうかと考える。
 つまり、公には初めて書物にイメージが侵入したこの構成体において、テクストとイメージが依然として不和で摩擦を引き起こしていたのであると。
 イメージがテクストに対して透明でもなければ、イメージがテクストに対して不透明な訳でもない、いわば半透明的なレベルがある。
 それは植物の葉のフォトジェニック・ドローイングがその輪郭ばかりでなく葉がはね返したり、ためたり、透過させたりした結果できたあの中間的な層の半透明影を請け出すことにはならないだろうか。言い換えれば、本に差し込まれて貼り付けられた写真という存在そのものを肯定することにならないだろうか。
 そんなことを考えながら写真集をスキャンし、すべてをカードにしてみる。トランプのように並べなおしをする。