際限のない回転


トルボット論続行。
 しばしば写真の複製可能性の始まりとされるカロタイプ、その反復的生産の試みに対して、ラリー・シャーフは別の反復的回帰を呈示する。彼の議論は私にとってはあくまでも叩き台としての議論なのでそのまま請け出すことはできないが、少し興味深い。写真像の機械的大量生産、あの印刷の輪転機を髣髴とさせる産業化や商業化に対して、トルボットはその手仕事的で芸術的な制作活動におけるコンタクト・イメージへの反復的な回帰を強調するのである。そして彼の芸術的円環はコモ湖畔でのインスピレーションで回りはじめ、最大のミューズであった母の死によって閉じられる。もちろん取り出してみたいのは、芸術的とか霊感源とかいう形容辞を取り除いたコンタクト・イメージ。しかしそのたえざる回帰と接触がある意味で「機械的」だとしたらどうなるのか。…輪転機に喩えられた論証プロセス、ここから掘り返していく。自分の議論が堂々巡りに回っていないかが実は心配であったりする。

どうでもいい話ではあるが、『自然の鉛筆』の棚の写真は、感光性の問題からレイコック・アベイの庭で撮影された可能性が高いと言う。もしこれが事実だとすれば、事実の記録としてのテクストにならべられた写真がある意味でその枠組みを演出されたものに依拠しているということになる。ガラスに少しでもそうした何かが写っていないものか拡大して検証する。

 サウス・ギャラリーという細長いアベイの回廊の機能について思いをめぐらす。ギャラリーの意味は、以前とある講演でも聞いたように、画廊や美術作品を展示するスペース以外に、回廊や細長い部屋、アーケード(パサージュ)を指す。この通路での撮影行為がもたらす様々な意味について考える。