しめきりの将棋倒し

 さて次の原稿。これが今週末締切。これが終わるともう一本原稿。それも終わるともう一本原稿。原稿わんこそば状態である。あるいはしめきりの将棋倒し。

 次の仕事は所有と芸術と欲望について考えろという「らくごのご」みたいなお話なのであるが、これにイデオロギー的とか政治的側面とかを盛り込んでということのようである。最近は写真について考えているのでさらに話が限定されてくるように思える。例えば、人間家族展とかFSAとかヴェトナム戦争の写真とかトロツキーの姿が消えたレーニンの写真とか例は思い浮かぶが、それで構成できるお話があまりにも話としては面白くない。
 たしかに写真そのもののレイアウトやシークエンス、そしてそこに潜在的にでも付随する言語によって、写真が意味づけられある政治的機能を担いイデオロギーに仕えていることは確かであり、そうした作用をもつ写真という「透明」と想定された映像は効果的な媒体となりうることも明らかである。そして、そうした意味づけられイデオロギーづけられた世界の所有のために写真が利用されている、あるいはそうしたイデオロギーに逆に写真を観る者が所有されているという話は別にこれまでも繰り返されてきたと思う。そうした所有に対する批判的分析としていくつかの写真論は書かれてきた。つづく