講演会のお知らせなど

■講演会のお知らせ
下記の講演会のお知らせをもらいました。時間のある方はお越しくださいとのことです。
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神戸大学文学部・芸術学研究室・講演会のお知らせ

紫陽花の季節、以下のような小さな講演会を開催することになりました。ご関心をおもちの方はぜひご参加ください。

テーマ:
現代日本西洋音楽移入における〈伝統〉概念」(日本語)

講師:ルチアーナ・ガリアーノ
   イタリア・ヴェネチア大学助教授(東アジア音楽・日本現代音楽)
   国際日本文化研究所外国人研究員(2004年9月〜2005年6月)
(ルチアーナ・ガリアーノさんは、1991年に東京芸術大学で日本の現代音楽を研究され、イタリアに帰国後は現代音楽一般にかかわる仕事のかたわら、ヴェネチア大学芸術史学科で中国音楽や日本音楽について教えていらっしゃいます。昨年秋より国際日本文化研究所の特別研究員として、日本音楽における時間の概念を中心に研究されています。)

日時:2005年6月20日(月)13:30より
場所:神戸大学文学部163教室(視聴覚教室)
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■業務+ビデオ的違和感
 講義講読。講義は今日から映画シリーズ。「ビデオで社会学」系の議論を紹介し、それとは異なる映像の社会学の模索の話をした後、『羅生門』を見せる。映画の政治性への注釈をあれほどしたのに、一般的なステレオタイプ的な政治的言説が結構あってげんなりする。だからそれが問題的だって、とひとりごちる。
 以前書いたかもしれないが、以前研究室に何度か某新聞社の某部署の記者から電話があって映画に関するコメントを求められたことがあった。昨今のチャンバラ・ブームと60年代学生運動の動向とを関連付けたいのでお墨付きが欲しいとの内容である。絶句したくなりながら頼むから丁重に他を当たってもらうようお願いした。記者の思いつきは思いつきでいいけれど人を巻き込むのはどうかと思う。相手が分からずお墨付きをもらおうとするのもどうかと思う。これも先ほどと同根の一般的言説である。
 これとはそれほど関係はないが、たぶん、大学の授業でビデオ化された映画を見せて社会や文化を写像的関係において語るものは増えてくるのだろうと思う。そうしたケースに疑問を差し挟むのも視覚文化論的な問題だと思う。つまり、そこで映像の美学に閉じてしまうのではなく、違う語り方を考えていかないとならないということ。なぜなら先の2例はどちらも閉じ方においては同種のものだからである。
 講読はクラカウアーの二重の抑圧に関するところ。彼の抑圧や否認が次々と問題化されていくはず。ハンセン、容赦なし。