ハエのイメージ

■ハエのイメージ
 引き続きコンタクト・イメージ。
 ゼウクシスとパラシオスでも、クリストゥスでも、雪舟の話でもよいが、絵画のイリュージョニスティックな力を伝える逸話は多い。絵に描かれたものを現実と取り違えるほどの観者を欺く力を表現した一連の話のことである。
 しかし、そこで重要なのは、視覚から運動や触覚への移行が行われているという点である。絵に描かれたカーテンを手でぐっと引き開けようとしたり、ねずみを追い払ったり、絵の縁にとまったハエを手で払いのけたり、というように、何らかの妨げとなるものを払いのける所作がそこにはつきものだからである。あの、ジョットが人物の鼻のうえにとまったハエを描き、それを見たチマブエが手で払おうとして後から自身の誤りに気づく話というのも、この一連の話に組み入れられるエピソードである。
 こうしたハエは、しばしば絵の縁に――描かれた額縁の上に描かれている場合もある――置かれている。リアリズム的な細部をいかに見事に描いたかという絵画表現の進歩を示すもの、それがハエを語る逸話であるのかもしれない。しかし、手で軽く払いのけることができると思いきや、ハエは執拗にそこにとどまり続け、払っても戻ってくる。
 ハエは、一方で上述のごとき意味でリアルなものの印であるが、他方で別のリアルなものを「におわせる」という。ハエが「とまっていた=接触していた」ものは腐敗したもの、腐って崩れていくもの、だからハエは見る者に不快感を引き起こすのである。
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 このように、描かれる対象としてのハエというのは、様々な論点を示唆する。ハエは何か不浄なものに接触している。だからハエには「触れ」たくない。ハエを払う際のあの手の所作はハエに触れるためではなくハエを払うためにある。そうしたハエが、イリュージョンとして、しかも別のイリュージョンの上に重ね合わされる。絵のうえに描かれたハエは、一方で透明で清浄な視覚、絵の向こうに差し向けられる視線によってはじめてその意義を得るのだが、同時にそれはイリュージョンの上に「接触した」イリュージョンとして、さらには別のリアルなものに「接触した」ものとして、透明な視線の夾雑物となり、それを払おうとする動作にひとを駆り立てる。ハエがとまるものは、腐り、自ら崩れ落ち、分解していくものである。ハエがとまるイリュージョンとそれを支えていた視線は、腐って崩れ落ちていく。
 ハエは執拗にとどまる。ハエはいくら払おうが戻ってくる。ハエはそのうち仲間を呼び集め群れになっていく。
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…それにしてもこの暑いのにハエとは。
明日に続く。