ハエのイメージ2

photographology2005-07-20

 虫のイメージとして、例えば『アンダルシアの犬』のあのショットがある。手のひらの黒い染みに見えたものが実は、無数の蟻の群れであり、それが硬直した手の中心に群がっている。それは視覚的な遊戯というよりもむしろ、視覚につけられた触覚的な傷、いわば聖痕のように手のひらの中心に穿たれ、大きく口を開けた傷なのであるという。
 バタイユによる『ドキュマン』のモンタージュも、こうした表象批判の文脈から読み出すことができる。その最終号においてバタイユは、拡大されたハエの肢の顕微鏡写真を掲載している。それは目を欺くイリュージョンとしてのハエではなく、あまりにも近くに現われ、私たちの目にはりつき、目を貫き、貪りつくすイメージなのであるという。
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 このように読まれるバタイユによる視覚への批判は、さらに考えると面白い。ただ不浄なものとして読者にハエを見せるというのではなく、「拡大視」された虫の肢をページの平面に印刷して読者の目につきつけるのである。しかも顕微鏡写真における虫の肢は、ガラス板によって圧迫されぺしゃんこになっている。はりついた虫のからだ。
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 バタイユは同じく『ドキュマン』に教会の墓所に堆く積み上げられた骸骨の写真を掲載している。ディディ=ユベルマンが言うには、このへしゃげてくっつきあった骸骨の群れは、あのボワファールのハエ取り紙写真と共鳴している。ハエ取り紙に捕らえられ、体がへしゃげて互いにもつれてくっつきあったイメージ。それは、身体を捕らえ、動かぬよう固定し、歪めてしまう「触覚的空間」であり、こうした自らが自らを陥れるトラップのなかで身体は潰されていく。このイメージが、私たちの目にはりつくのである。
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 で、午後読書会。中庭に面した研究室は蚊、時にはカナブン、セミまで飛び込んでくる。虫を払って戻ってきて潰して読書会。
訳文はとりあえず本サイトに少しずつあげていきます。それは明日にでも。

終わって学生とご飯を食べて終了。今日は青い話はほどほど。
帰るとタワーの消灯時間。写真はそういうこと。