学会3日目――書きかけ1――


今日はヴェルフリンの発表とイコノロジーの発表とカンディンスキーの発表を聞く。

終わって委員会、そしてこっちのタワーの前に帰る。

 昨日の続き。
 GUIの発表は素材がメタ的なものばかりだったのでもう少しベタ的なものが出てくればおもしろかったし、ヴェルフリンの発表はステレオスコープが出てくる意義が不明であった――スライドを出せば身体的な核が出てくるし、心理学と美術史との関係も挑発的に取り出せるはずかもしれない、というかクレーリーの挑発的な切断がどこにおいて挑発的なのかがもう少し聞きたいと思った――。イコノロジーカンディンスキーは早口だったりこもりすぎだったりしてよく聞こえなくてわからなかった。

 シンポジウムについては、聞きたかったことというか、当然主題になるべきと勝手に思っていたというべきなのか、聞きにいった理由があった。
 それは、簡単に言うと、美学は狭まっているのに美学は拡がっているということかもしれない。美学会というのは、実に不思議な場所だと思う。ある意味で異種格闘技戦みたいな場所であり、例えば、美術史のひとが美学会で発表する場合、美術史学会で発表するのとは趣の違った発表を聞くこともできるし、それを聞いているひとは結構相互の学問の枠を解除して議論したりすることもできたりもすると思っていた。扱う主題も、そのためのスタイルもまちまちで、それが醍醐味と言えば醍醐味であると思っていた。
 ただし大多数の美学講座をかかえた大学では、カントやヘーゲルなどの大理論家の美学理論に取り組みたいという学生はしだいに数が少なくなっているのは事実だと思うし、逆にそうした美学に属する学生の数は数が増えてきているし、その傾向はこれからしばらく続くと思う。彼らはカントもヘーゲルベルグソンも読んでいないことが多い。ベンヤミンみたいなはずれたことをかじっていた人間でも、やはりそうしたものは言説のポリティークのためには読まざるを得なかった。しかし現在では、少し事情は異なってきているように思えてならない。もしかするとそれは美学会で以前からあったことかもしれないし、私だけの邪推かもしれない。しかし、この変化は無視できないほど明らかになってしまっている。
 こういう状況の推移を身体的に感じているのは、たぶんそれほど限られた大学の関係者ばかりではないと思う。パネリストのおひとりが述べたように、今回の学会発表のタイトルに以前は多かった美学者の名前がそれほどないという事実も、このことを裏づけているようである。
 それを動物化とかカーニヴァル化とかネタ化とか、いろいろな言葉で呼んでもいい。そしてそうした状況に対して美学の構える(構えない)構え方みたいなものが、状況の認識も含めて聞きたくてシンポジウムに参加したのである。
 それで、そのシンポジウムのタイトルが「美学の終焉?」。