未完の写真へ


ゼミ。サウンドスケープの発表。

昨日の続き

■杉本写真ふたたび
 先日の杉本展のつけたし。彼の写真を見たのは実ははじめてだった。
 写真集からも分かるように、これほどまでに実によく計算された、仕上げの完璧な個々の作品とその展示の仕方。たぶんこれまで見た写真展のなかでは五本の指に入るものだと思う。
 逆に、写真集からもすでに感じていたことなのだが、その作品の――個々の作品や一連の作品のコンセプトや作品を本人が語る言葉も含めて――完結性には、他者が言葉を継ぐ余地をあまりにも残さない性格ゆえに、何かしらずるさというものを感じていた。こうした印象はたぶん実際に作品を見ても変わらなかった。いい意味でも悪い意味でも。
 浅田氏のこの杉本展の批評、この見事な批評=批判を読んで付け足すことはそれほどない。見事に終わらせてしまい、終わりを永遠にしてしまっている写真家のポジションは無敵である。決定的に未完と無際限に完成されたという観点から、杉本はアンチ・デュシャンであるというのもその通りだと思う。杉本の写真によるリテラルな駒の詰め方も同様。
 ただ、その批評=批判に少しだけ拘泥して言っておきたいのは、写真というものは容易には終わらせられないものであるということである。杉本は終わらせた、でも終わらせられないのが写真という実に不気味なものなのである。

■シンポ
についてと思ったがまた時間なく落ちる。これは週末にでも。