通信「的」教育

■通信的混線
 講義ゼミ講義の日。パノラマ講義はスギモト半分、パノラマ半分。
 講義をしていると音声関係が混線しているらしく、スピーカーから3人の学生の声がする。向こうにはこちらのDVD音が聞こえているらしい。次回は通信してみようと思う。ずっとインタヴューしながら授業をするとか。これが本当の通信教育。

■至宝到着
 見計らいで写真史の至宝シリーズをようやく目にする。安井仲治と小石清と堀野正雄のもの。写真一枚を見る形式が物理的に規定されていることをいまさらながら確認する。ザンダーの『20世紀の人間』全7巻もようやく届く。これも凄い編集である。杉本展のハードカバー版も届く。ネットではすでにオークションがかかっている勢いだそうだ。そのほか痛い系写真集・DVDもちらほら。トラウマ系というか自傷的事象にしか思えなくて、醜科研ネタにはなるのだが、食傷気味。

■美学シンポ
 3日前のメモに書き足すならば、
 美学の縮小=拡大、あるいは美学化する状況について、大きく分けて二種類の姿勢があったように思われる。それは、従来の伝統的な美学および哲学の圏域を自己反省しつつその外部への開かれを強調する立場と、暫定的なスタンスのなかで移動する地点から自らの身体を契機にして当面の方策を述べる立場の二種類ということである。たしかに、事情はそんなに単純ではない。しかし、現状についての温度差というのは聴衆にも明瞭ではなかっただろうか。現状への身体的な感じ方こそが実は必要だと思う。心理学化社会学化、ネタ化、動物化カーニヴァル化する状況に対して美学は身体的な手がかりから切り込むこと、それがこのシンポで感じ取ったことであった。とはいえ、そのためには「美学理論」も「とりあえず」必要なのであるが。というかそもそも美学は、現在のこの微妙な稜線を攻めるには格好のスタンスだと思う。