アナログのデジタル割り


京近美にベアーテ・グーチョウ氏の講演を聴きにいく。
お話はこれまで制作してきた二つのシリーズの話であった。
一方が都市の風景を扱ったものであり、もう一方が自然の風景を扱ったものである。
どちらのシリーズ作品制作にも共通しているのは、その方法である。予めプランを構想しつつ、とはいえ比較的幅をもたせてアナログ撮影をした写真のそれぞれをデジタル化して構成し、現像定着には暗室でインク・ライト方式を用いて印刷する、つまりアナログで撮影してデジタル化してアナログでプリントするというアナログとデジタルを何割かずつ含んだプロセスになっているということである。
どちらの作品シリーズでもメディアの知覚が問題になっているという。都市の写真シリーズでは、時間も場所もランダムな被写体が寄せ集められて白黒で仕上げられる。それは20世紀の報道写真のレトリックにしたがっているように見えて、編集ゆえに予想外に過剰なコンテクストをその写真に胚胎させることでそうしたコンテクストを回避するという。イラクアメリカとその他の地域の要素が結びつけられ、よく見るとどことなくつじつまの合わない写真が構築されるという。被写体の選択のみならず、遠近法においても、視角においても、こうした断片性はつねに意識されざるをえなくなる。彼女はそれをネガティヴなユートピアと呼ぶ。
 自然の風景のシリーズは、17世紀の風景画の理想的な牧歌的な風景画がその基礎にある。近景中景後景が周到に構築された理想的な風景が、写真というメディウムを通してどことない違和感を生じさせる。それは理想的にされている風景が、文字通り身も蓋もない写真というメディウムを通じて表象された際に、どことなくunheimlichな(不気味な)感覚を喚起せしめるのではないかという意図によって構築されたそうである。ここでは参照点は、17世紀の理想的な風景ということになる。それ以上のことは意図していないそうである。

 ただし、何だか煮え切らなかった感じを受けたのは、写真における時間の層への関心があまり述べられなかったからかもしれない。まだはっきり言えないけれど、とりあえずこう書いておく。

 講演後、小一時間ぐらい展覧会を見てまわる。感想はまた。


卒論の下書き一本と修論の原稿一本を読む。コメントを深夜に出して終了。
この時期パニクらせないようにコメントするのは本当に気をつかうのです。

 
書きかけ