写真 かわいい

□携帯写真のunbearable lightness
葬式と携帯写真について以前ニュースになったことがある(→http://d.hatena.ne.jp/morohiro_s/20060219)。今朝テレビを見ていたら関西の芸人等がこのニュースについてお喋りをしていて、例のごとくの不謹慎であるとかないとかの議論に加えて、肌身離さずもっているからとか、消せる軽さがあるからとか、あるいは、遺影写真を携帯で撮影するのなら分かるとか、いろいろな携帯観が披露されていていた。
携帯写真の軽い重さ/重い軽さというのはひとつのポイントにはちがいない。
いずれにしてもJ・ルビーの本は読むことにする。


□かわいいという鏡の裏箔
 「かわいい論」読了。
 議論を開く意味でとても参考になる本だった。筆者も述べているように、おそらくこの本は、さまざまな論者によってさまざまな形で分岐させられ、展開させられていく議論のための出発点となると考えている。
 とくに4章から6章にかけての記述は、昨日書いたかわいいの鏡の裏箔にあたるグロテスクなものを前提にしながら、ミニアチュール、スーヴニール、ノスタルジーが消費社会のなかで結び合わされ、第7章ではメディア(女性雑誌)におけるかわいい戦略の問題の呈示を経て、第8章で萌えの議論に目配りがなされ、同時に批判的視点が挟まれ、最終章ではアウシュヴィッツのかわいい壁画とグレムリン2が挿話としてあげられながら破局を薄膜一枚へだてているかわいいの作用で締めくくられる。
 かわいいを議論することは、一般的な現代消費社会論にとどまらず、19世紀以降の美学的な問題にも接続するし、昨日述べたように美醜という対立概念では手に負えなくなっている現在の美学的な問題にも違う問題構成を促すにちがいない。
 それにしても、四方田氏が率直に述べる「わたしの内側で「かわいい」に共鳴する何かが壊れたことは確かだった」という言葉は、かわいい論の難しさを物語っている。かわいいものを論じるには、かわいいの裏面にはりついている箔にも身を晒さなければならない、しかしそうすれば今にも破れそうなその薄膜の脆弱さ、それが引き起こすかもしれない破局に気がついてしまう。
 ちなみにアーバスの写真やアルバム写真の話、プリクラについての議論、ジョセフ・コーネルについての話も含まれている。写真論として展開する余地はある。