きもかわとこわかわ


書類の山を半分片付ける。で、かわいいについて。
昨日挙げた本を読みながら、かわいいの諸相について考える。
ヴィジュアル・イメージ全般にわたって、かわいいものが蔓延しており、それを見過ごすことはできないということが第一にある。しかもそのかわいいが従来の論じ方では充分に捉えきれないということが第二にある。

 そういう意味で、かわいいときもい(醜い、グロテスク)とが実は薄膜一枚によって隔てられているにすぎないという四方田氏の分析は、かなり肯ける部分が大きい。

 以前、ここで「こわかわいい」と言葉で言おうとしていたことは、これに近いし、ルクスの写真がかわいいでは収まりきらない印象を与えるのはそういうことではないか。

 かわいいはまた、醜の問題を美との弁証法的な対立に置き、最終的に醜を持ち上げるような垂直的な議論では不十分にしか思えなかった議論を、別の仕方であらたに構成することを可能にしてくれる。醜と美を横にずらし水平に議論するための媒介項がかわいいなのではないかとも考える。