シアトリカリティの分裂

■KINO雑誌KINOというのが創刊されたらしい。チェックしておく。新学長も満面の笑み。にしても浦沢の特集はとみに多い。

■写真のシアトリカリティ
フォトグラファーズ・ギャラリー第5号の特集「写真のシアトリカリティ」をようやく読む。仕事の関係上――パノラマ論、かわいいとキャンプにおける距離、ケータイ論、写真史/写真論、他にもいくつかやりかけている問題も含めて――、(非)シアトリカリティで整理できそうな気がしているということもある。
 林氏の分かりやすい見取り図が参考になる。美術館における芸術写真と美術における写真の流用の乖離が指摘されている。フリードの前提にしていた二分法をそもそも最初から侵食していた写真、アーカイヴという問題、これも肯ける。土屋氏や倉石氏の論考も問題の整理上、参照文献になる。
 もちろん、上記の問題を考えているため無理な注文かもしれないが、いくつか疑問点もある。例えば、写真の終わり以後のデジタル写真のシアトリカリティの問題。時間を見て続きを書く。 

■格闘技のシアトリカリティ
原稿は頓挫しているが、ブログで情報をもらった昭和必殺技名鑑を見て、カメラと格闘技、映像と格闘技について少し考えるきっかけになるかもしれないと思う。
 プロレスにおいては技をかける側/かけられる側が見せる/見せられることが前提となった技が多く、それを報道する写真もまた決めの構図が決まっている。カメラマンに合図をして暫くのためがあり、その構図で撮らせる――永源のつば攻撃までいかなくてもいい――。以前スーパースロー再生をプロレス番組でフィニッシュの後に入れたことがあるが、効果はいまひとつだった。
 そんなプロレス的な見せ方をシアトリカリティと呼ぶなら、まさに見せ方においては半端ではない格闘技(番組)のシアトリカリティは、、、と考えてみる。大多数の観客は会場でリングを直接見るのではなく、巨大なビジョンで見る、その再生で確認することが当然だろうし、入場の時の対戦画像の作りこみ方もその要素のひとつになっている。固定カメラの数も半端ではなかろう。シアトリカルなことはこのうえない。しかしその意味はごく透明である。対して、、、。

■パノラマ報告

メスタグ・パノラマのメスタグが30代半ばにして実業家から画家に転職して成功したという成功譚を延々と読む。メスタグのセレブぶりをおさえたエッセイ。