メスタグのパノラマ

 初校原稿を送ってひとつが終了。あと4つ。
 京都駅前でやっているコンサートを聞きながら作業三昧。

■シアトリカリティ補遺
昨日写真のシアトリカリティに関してもうひとつ書きわすれた問題は、現実と虚構の問題であると思う。しかも捩れた現実と虚構との関係である。この件については、以前ミクシでも長谷正人氏のナンシー関論に関して書いたことがあるのだけれどもでそのまま自己引用しておく。

ここにおさめられた長谷氏のエッセイは、「虚構の時代」以降の、「現実を回避するために現実を渇望する時代」のテレビ/現実の問題を考えるうえで参考になる。
 1970年代前後までのある種のフィクションとして作り上げられた「芸のある」作品としての番組が、それ以降、作品として批評することが到底不可能な「だらだらした」何の「芸もない」ものになり、それをあえてエンタテインメントとしてフィクショナルに論じてみるアクロバティックなテレビ批評、それがナンシー関の凄さであった。
 しかし彼女が死の数年前から、おそらく感じていた「ズレ」がある。それは、素人が参加する番組の増加とそこに素の身も蓋もない現実がただ垂れ流されているという現状とのズレと言い換えてもいいだろう。
 もはやフィクショナルに批評する余地もない、フィクションと思っていたら出演者も視聴者も素である、現実を渇望しているような番組。おいおい、それはボケと違うたのかとツッコムと皆不思議な顔をしているそうしたボケっぱなしの本気の番組。
 さらに厄介なことに、ナンシーのつけていた芸能と政治の区分はなし崩しになってきており、テレビを通じて流される現実がそうした奇妙でゆるいフィクション/現実となっている。

 これはTVの問題にとどまらない。
 写真がそれをどう引き受けているのか、引き受けられないのか、それが現実的な問題だと思う。
 監視の問題もここに関わる。
 思い出したので季刊de/Signのバックナンバーを注文する。TVに関する議論。

■パノラマ報告
 ブリュッセルのパノラマ熱およびパノラマ会社設立ブーム、当時の投資家たち、資本金の株式による回収、ベルギーおよび周辺諸国のパノラマ画家たちへの依頼の仕方、投資家をつのるための手法、そうした事情についてかかれた論文を読む。
 当時の不況ゆえに一部のサロンの画家を除く多くの画家たちが恒常的に仕事を得る手段がパノラマ絵画制作であったということ。

 メスタグのパノラマはけっして大ヒットをおさめたわけでもないし、投入した資金はなかなか回収できなかったようである。当時の主題の傾向――物語的でダイナミックな複数のアクションやシーンがあるパノラマに人気があった――から考えても、静謐な海辺のリゾート地をその数キロ離れた場所で絵画として見るというのは、変に浮いたパノラマだったということが分かる。もちろんメスタグ自身は自身の画業の総決算としてこのパノラマを見なしていたのであるし、芸術作品としてそれが評価されることを望んでいた。

 流通の面でパノラマは、映画と比較することができる。規格化されたパノラマ建築とそのカンバスによって、一点ものではあるが絵画が各地を巡回し、採算を効率よく挙げる仕組み。異なる絵画が相互に交換され、それが各地の観客の関心を煽るという興行形態。

 さて制作についての詳細な論文へ。
 パノラマの制作について興味深いのは、芸術学で議論されていた純粋な目と手になってしまうパノラマ画家たちの身体である。真の芸術作品とか自然に迫る絵画と言われるメスタグの制作に関しても、おそらく同じことは当てはまるにちがいない。
またメスタグのパノラマは、ガラスの円筒を使ったことでも知られている。描く浜辺をのぞむ砂丘の頂に立ってこの円筒に頭をすっぽり入れて、ガラスに直接下絵を描く、そしてそれを転写するという手続き。
この装置と写真との関係についてはまた明日の課題。