たわわほんこわこわかわ

■「小さな地理」
河合晋平さんから東京での展覧会のお知らせをいただく。過去の作品リストも整理されていて、通販カタログ的になっている。

■ほん怖

 各Jホラー書でも古典とされているその第二夜の三作――「夏の体育館」「霊のうごめく家」「真夜中の病棟」――を見る。監督自身のコメンタリーもついていて参考になる。
ビデオとフィルムによる暗闇の違いや、テレビモニターとスクリーンの映りの違い、編集における怖さの示し方、俳優の動き、ショットサイズ・視点・ズーム、そうした要素の組み合わせ。それをひとつひとつ学ぶつもり。そして何よりも映画館のスクリーン上で暗闇を見る経験を積まないとならないこともよく分かる。

 心霊写真と心霊映画の違いは、端的に言って動きと編集にある。なかでも「ない」ことを示す方法。写真においては、なかったものがあることが怖い。映画においては、あるだろうと思ったものがなくなっていることが怖い。これは「霊のうごめく家」に典型的に見られる。もちろん映画にも得体の知れぬ人影が入ってしまうというケースもあるが。
 そして、以前も書いたように心霊写真には手や足が余計にあること(これもなかったものがある部類ではある)も怖さを引き起こす。それでは、映画において「ある」ものの怖さはどのようにしたら表現できるのか、その例として「夏の体育館」の赤い服の女性や「霊のうごめく…」の黒服の男性がある。これについてはまた書き継ぐ。

■映画の魔のつづき
この「ある」怖さの表現にも関わることだけれど、人形という馴染み深いものがなぜ恐怖の対象になるのかについてこういう言葉もある。

まだ象徴秩序が打ち立てられていない子どもが人形と遊んだ時、その人形は別に生きていてもいいんですよね。生命があっても構わない。だけど、そのうちにそうじゃない、ただの人形だ、生きていないっていうふうに否定、裏切る。…〔中略〕…そういうことをしてきて、ある時ふっと人形を見たとき、こっちを見ているような気がした。そんなときに始まるわけですよね、その反復回帰が。

フロイト的すぎるかもしれないけれど、人形を介してかわいいとこわいが接続する。

■たわわ
昨日今日といつものようにタワーに行くと、たわわな人の群れるなか、お知らせの掲示がある。夏休みの間、京都タワーではたわわちゃん体操(正式名京都タワー体操)の時間があり、皆さんで盛り上がれるようである。京都タワーのページも参照のこと。