電話うた最終回


会議半日。え、これも僕がやるんすかや状態。

■電話うた
 今日の電話うた。ひとまずこれできりをつけておこう。
 東京 電話
 くるり『東京』。歌詞はここ。試聴はi-tunes。電話のような話の頻繁な切り替えがある。しかし電「話」ではない。かといってそれは手紙でもないしメールでもない。たしかに電話的な話法だが少し奇妙なモノローグである。これはレミオロメン『電話』(歌詞はここ)と比較すると明瞭になる。
 後者は電話で挙げる話題がうたわれ、天気の話、近況の報告、つながっていることが整然と並べられている。電話の世界と現実の世界も整理されている。前者は、電話をする以前に電話的話法のなかに浸かっている。時制もことの順序も電話的にとりとめもなく混乱する。そこでふと「君」を思い出し電話を手にする。しかし電話的な現在とは隔てられている。
 電話をかけないかかってこないという電話うたは多いが、そういうかつての現在と隔てられた回想の際に電話的に時間や意識の層が混乱する電話うたはめずらしい。

…ついでにジャニーズものもまとめて、
 青春アミーゴ (通常盤) SHAKE
 前者は男ふたりでひとつにつながっていた熱い男の電話うた。後者は電話的現在の昂揚をうたう電話うた。さらにコメントで小林さんが挙げてくれた槙原もの。歌詞はここ。空というポイントもある。
 君は僕の宝物
 いただいた情報を開いておこう。
 記憶と電話番号。それは、ケータイ以前と以後では決定的に異なる。
 ケータイ以前、番号は頭と体で覚えられ、呼び出された。ケータイ以後、番号は登録され、そして呼び出される。それがいいことかなのかどうかはさしおいて。ケータイ以前、おぼえたてのおぼろげな番号は、そのひととの距離がいまだ遠く、場合によっては思い出すことそのものが「てれくさい」ことであり、雷のような大きな物音で容易に遠のいてしまうもの、それが番号だった。番号を思い出せたり、番号を忘れてしまったりすること、それだけで強い電荷をともなった身体的経験であった。
 また、公衆電話というのは、当時自宅の居間の電話まわりでの身内の牽制をさけて、静かに電話して声になりうる外の個室であった。大切な相手に電話するために寄り道をして公衆電話でかける。それは当たり前のことだった。
 身と一体となったケータイはそうした旧電話よりもよっぽど手間がかからない。しかし、そのかける、かかるまでの距離がないというのは、交話的機能が主となったコミュニケーションにおいてはたいへんな労苦がかえってともなうことは確かかもしれない。ここのところケータイ論(電話論)を追いかけていて、ケータイのアドレス帳の話を読むと(読まなくても分かることだが)、こうした事態は現在異なるものに変質していることが分かる。それはミクシで。

 長くなりついでにこうしたケータイの現在を示しているのがKAT-TUNの『SIGNAL』。「それぞれの胸に」しまわれたケータイのように「チカチカ」と明滅する、ともすると消え入りそうな「情熱」の「Possibility」を後押しするケータイ的応援歌。
SIGNAL (通常盤)

 以上、電話うたシリーズこれでいったんしめ。また素材が集まって書く気になれば書きます。

■幽霊にはなぜ足がないのか
 加冶屋さんから送ってもらった、絵画表象において幽霊にはなぜ足がないのかという問題を扱った日本美術史の論文を以前いただいて、ようやくそれを読む。
 私たちは幽霊の足がないものと思いなしている。
 しかし17世紀初頭には幽霊の足ははっきりと描かれていた。ところがそうした幽霊の足が、世紀半ばには消失していく。しかしよく見ると足ばかりでなく下半身全体がない。どうやら出現と消失を、時間的継起を空間的に変換してみせる論理がここにあったのではないか、というのである。それが固定されて足の無い=幽霊表現に固定化していったのだろう。そしてこの足の切断が表象史の切断面にあたるのではないか。なるほど。
 現在の心霊表象を見ると、話はさらに展開できる。心霊映画において出現と消失は難しい。連続的な時間的継起で映像化すると、とたんにうそくさくなる。現在の霊の出現消失の表象。それを考えようと思う。