霊媒師と魔術師と映画
■電話うた
矢野顕子『電話線』。
歌詞はここ。試聴はここ。電話うたには、夜や月や雨や涙が添えられ、かかってくるのこないの、切れたの切ってないの、そういう神経戦がとみに多い。この電話うたはその逆。ふところが深く強く優しい電話うた。そういう意味で、写真うたで挙げた加藤登紀子と同ランク。
これに対して、神経戦の筆頭格が浜あゆ。
先日まで採点していたレポートのなかで面白かったものに浜あゆ論があった。それによれば、例えば『evolution』の歌詞には「何だか」「何とかして」、「そんな」「こんな」という曖昧な指示が多く、それが「僕ら」「僕達」というふたたび曖昧な集合を参照しつつ、あまりにも抽象的で曖昧な「地球」や「人間」や「人」や「時代」へと拡大される。極大の曖昧さと極小の曖昧さを往復して、期待と失望、安心と不安を繰りかえす。
同様に、電話うたの『appears』は、「からね」「見えるよね」「よね」と不安と安心の往復をするとともに、電話をしながら街ゆく「恋人達」を声と目に分離して「…appears=…見えるよね」とながめている、そんな電話うた。
■手と指
手の話題で書き忘れていたが『Loft』が関西でもそろそろ公開される。
『LOFT』
トップの画面から手が満載でどうやら不気味な手の魅力を満喫できそうなホラー映画のようである。ただし、予告編は日本むけのものは怖くない。英語版はここの上のほうはしっかり怖い。安達ユミの怖さもしっかりとおさえられているような気がする。ついでに付け加えておけば、『親指さがし』も公開される。
■手と映画
手と映画の例を先に挙げたが、手と映画(写真)の問題群のなかで継続して考えているのは、マジックの歴史である。
バーナウ『魔術師と映画』(ありな書房)、そしてそのあとがきを読めば分かるように、手の表象史にとって重要な、霊媒師から魔術師、そして銀幕の魔術師への系譜をつないでくれるのが、メリエスであり、ウェルズである。降霊会やマジックショーにおいては、頭部、胴体、四肢が切断されて出現し、それが語り、踊り、漂う。そしてこの切断ということは、フィルムの編集にもかかわり、この編集ゆえに現われたものの消失をも可能にしたのだった。切断と運動、出現と消失。
今考えているのは、マジックショーでの身体硬直芸、人間の身体の凝固とその解除と、(降霊会および)映画における心霊的な表現との関係。そこでは滑らかに動くはずのものが硬直し、静止した動くはずのないものがぎこちなく、かたかたと動きだす。それはただ無生物に有機的な生を吹き込むことではない。。。
たぶん『LOFT』のミイラもそうなのだろう。
そして当然のことながら、霊媒師魔術師映画技師の手についても考えてみないとならない。