風のひと、土のひと
■感想2
風土と芸術をめぐるシンポが学会で開催された。
今風土何故風土。
風土とはどうやら地域性のことらしく、グローバリズムのなかでローカリズムを考えるという枠組みのようだった。近代やその進展において抑圧された身体や個別の場所を考える、あるいは考えようということ。それはもっともな提案。
ただし、そうした議論の底にある自然や身体というものが、いつもすでに媒介されている。なおかつそうした媒介された自然や身体というものが、近代において失われたものは云々という喪失や消失の言説やローカライズされた身体や場所とは、少しずれるように移動しながら、私たちの思考や感性に浸透してこちらを否応なしに移動させてしまう。そこが正直聞きたかったところ。
鈴木さんの電子メディアについての話、岩城さんの言語とイメージの話、佐伯さんの復活した身体の現在形、それを展開した議論を聞きたかったのが本音。もちろんシンポの宿命でそうした問題設定を述べるだけで時間はいっぱいだったのは分かるのだけれど。
足元にある土は風によって平気に国境を越えてどこかに堆積して、さらに別の風がそれを吹きながして移動させてしまう。
シンポの質疑応答を聞きながら、風のひと、土のひととつぶやく。
■ドーン
The Emergence of Cinematic Time: Modernity, Contingency, the Archive
- 作者: Mary Ann Doane
- 出版社/メーカー: Harvard University Press
- 発売日: 2002/12/27
- メディア: ペーパーバック
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とりあえずこちらから。第二章は
に収録。第三章「残像、インデックス、現在」を読みすすめる。
■跳ぶ写真
昨日挙げたアマチュア写真の跳ぶ写真があまりにも面白いので、跳ぶ写真論をできないかと考えてみる。画像は今日の欄にあげておこう。例えば、リュミエールの瞬間写真は、こんなものがある。
ぶさいくでぎこちなく時に顔が歪んでしまうばあいもあるがそれでいて愉快で幸せそうな跳ぶ写真。
30年代の格好いいアスリートの跳躍写真よりも実はこういう写真のほうが、昨日書いたような理由からずいぶん論じがいがある。
ちなみに最後のラルティーグの写真はステレオ。颯爽と跳んで迫ってくる。
跳びもの蓄積作業をはじめる。ひとまずラルティーグ。