ギクシャク論

■感想
学会で写真関係の発表がいくつかあったので感想。
 バルト論は、イメージなき実在と実在なきイメージの対立を超えようとする野心的な試み。手際よく整理されて面白かった。ただし、最後の社会的な記憶や情念とつながる「真実」に行き着くだけでなく、さらにその次元が展開される議論も見てみたかったのが率直な感想。
 全然関係ない話かもしれないけれど、バルト『明るい部屋』を読んでいると、19世紀の数々の写真についての言説がオーヴァーラップしてくる。写真という媒質への精妙な経験のそうした背景を読み出してみたい気もする。
 ベンヤミン論は、手際よくベンヤミンの写真についての言説をまとめあげた堅実な発表。できればレンガー=パッチュの議論をもう少し掘り下げ、ニューヴィジョンの議論を対置すると、ベンヤミンのなした議論の同時代のコンテクストが照射できそうな気もした。またそもそもベンヤミンの言葉をつなぐよりも、壊して取り出して別の言説にのせてしまうような編集があってもいいかもしれない。
 エグルストン論は、色が結局は関係がないという筋をもう少し色っぽく見せてほしかったかもしれない。色気を出す余裕すらなかったことは知っているがそれは関係なし。
 シンポジウムについては明日にでも。

■ギクシャク論

Time Stands Still: Muybridge and the Instantaneous Photography Movement

Time Stands Still: Muybridge and the Instantaneous Photography Movement

を注文。美しいマレイ論は多々あるけれど、不恰好なマイブリッジ論はまだ少なく議論の余地がまだまだありそうな気がする。あのガニングがマレイの滑らかな重複ではなくマイブリッジのギクシャクした分割を論じる。未見のままそんな妄想をしている。ついでにガニングの論文も載っている
Impossible Presence: Surface and Screen in the Photogenic Era

Impossible Presence: Surface and Screen in the Photogenic Era

を読みはじめる。「視覚の新たな閾」というガニング論文。これが抜群に面白い。
19世紀から20世紀への転換期に数多く撮影されたアマチュア写真には、ジャック=アンリ・ラルティーグのあの階段からにこやかに飛び立つ女性など、とにかく跳んで宙に静止している写真が多い。なかにはぎこちなく不恰好すぎて、見ている者が恥ずかしくなるような跳躍中の瞬間写真が多い。数限りなくどれだけの被写体が跳んだのか、レンズを向ければ誰もが跳んでいたような錯覚さえ生じてくるほどである。そうした推測は、80年代から90年代のアマチュア写真に関しては、それほど外れていなかったことが分かる。

 議論の開始点はリュミエール
 リュミエールのシネマトグラフが前提としていたのは、アマチュア写真市場であった。「あの」工場の出口の写真工場では短い露光時間やカラー写真技術によって可能になる再現技術が、アマチュア写真家たちの間での、乾板の爆発的売れ行きを支えていた。当時アマチュアとは、現在の意味とは違い、ある種の技術的科学的知識に精通した、時間とお金をたっぷりともったエリートのことを意味しており、リュミエール社の製品はそうしたアマチュアたちの雑誌においてしばしば記事になっていた。この科学的言説空間、言い換えれば、見ることと知ることの安定化へのヴェクトルが、アマチュアの写真空間を形成していた。

 ひとつの転換点になったのは、瞬間写真であった。無数の瞬間写真の試みは一方で、科学的な言説において話題にされ、他方でその試みは、その日常的身体の逸脱的な所作への強迫観念的な欲望にも貫かれていた。
 美的には保守的な趣味にひきずられていたアマチュアたちが、どこか悪戯的なおふざけ的な運動中の人の写真を非難しつつも、日常的で半ば窃視症的な不恰好な宙吊り写真にひきつけられていたのはこのうち後者の理由に由来している。ちょうどロンドのヒステリー写真のように、引きつり硬直したギクシャクした姿勢の日常の所作を彼らは収集しはじめる。これが世紀末の写真にまつわる第一の感性の変容だと言うことができる。

 さらにシネマトグラフの発明にともなう、静止から運動への移行が次の転換点となる。 
 シネマトグラフの簡便さは上記のアマチュアの使用者を当初購買層として見込んでいた。だが、写真技術のさらなる簡便化によって、大多数のアマチュアは使用者としてではなく、すでに受容者、見物人としての位置を自ら占めるようになっていった。
 従来のアマチュアは、一方でそうしたアマチュアたちの知識の欠如を嘆き、他方でシネマトグラフについては、瞬間写真にみられた不可視の姿勢の可視化を滑らかに均して不可視にしてしまうと言い、運動映像への不満を表明している。もちろん表向きの科学的向上心とは別に、運動によって失われるあのぎこちなさ、規律訓練を逸脱する身体の所作へのかすかな欲望がそこにはあったにちがいない。無数の瞬間写真とシネマトグラフの映像の間、ここに二つ目の写真に対する感性の変容がある。

 こうした議論をさらに展開すれば、運動と静止の問題にも従来とは違う視点を与えることができる。
 例えばリュミエールの初期の上映は、静止した写真の投影を映してそれがクランクを回しておもむろに運動しはじめるというものであった。不可能な姿勢での静止とそれがやおらギクシャクと動き出す運動との隙間、それが実は写真と映画の間にある結節点になり、魅力になっているのではないか。こういう推測も生じてくる。
…ガニングの議論はさらに、美的モダニズムにおける瞬間性の表象、ヴェルトフ『カメラを持った男』でのフリーズフレームの使用、ブルトンが用いたマン・レイの宙に浮いたダンサーの写真、、、最近のビデオテクノロジーにおけるフリーズモーションの機能へと流れていき、すっと静止させられる。世紀末の写真受容および運動と静止の映像を考える基本論文。

 ついでに以前手に入れて使い切れていなかった次の本も引っ張り出す。
 
 Sprung in die Zeit
 とにかく跳ぶ跳ねるのオンパレードのカタログ。アメルンクセンやティム・シュタールのごつごつした論文なども載った本。