霊の死後、霊のポーズ、霊の歩み

■二度の死の後の写真
 昨日も書いたように、心霊写真は二度死んでいる。それは世紀転換期から20世紀初頭にかけて(とくに大戦間期)と、1970年代から80年代末にかけての二回のことである。昨日紹介した吉田氏の議論はその回帰と反復を『リング』から読みとっている。もちろんそこにはいっせいに潮が引くように心霊特集が減少し、オカルト的なものへのバッシングが始まった事件が存在するという文脈をもってくることもできるだろう。

 それはさておき、心霊写真を論ずることは写真を論ずることにもなるのだとしたら、その二度の死とは、写真自体の二度の死と重なっており、だからデジタル技術によって写真は云々という言説がはびこる以前のとっくの昔に写真は死を迎えているのであり、その死がもう一度繰りかえされたということになる。それならばその死後はいかなるものなのか。
 二度死んだ後になぜか心霊写真はそれ自体が心霊となって映画に憑く。しかもビデオやPC画面を介して。自らは「写真的なもの」となって、ビデオの静止画や映画フィルムのせきとめられた画像へと住処を変える。
 ではその心霊写真の心霊的な現われ方はいかなるものなのか。
 それを考える。

■霊のポーズ
 ビデオと都市伝説。つまり本物の呪いのビデオがあり、それがどこかでお蔵入りになり日の目を見ない、そういうフィクショナルドキュメンタリーのテイストをとったビデオ作品がかつて大量に生み出された。おそらく萌芽は80年代半ばで90年代にかけて火の手が上がったのだろう。入れ子式の構造をそなえたホラー映画もあながちそれと無関係とは言えない。
 小池壮彦氏はこれを、陰謀史観的な流通のしかたと結びつけて言及している。ここらへん『UFOとポストモダン』の話とつながりそうな気もする。もっと違う言い方をすれば、ネタとベタの境がおかしくなり、現実と表象の力学が不安定になった時点の話ということなのかもしれない。あの自殺した有名なアイドルがTV番組に霊として出演していたのも、この当時の話。

 しかし、それよりも80年代半ば、家庭用ビデオが普及し、録画された番組に写りこんだものを凝視するためにポーズボタンを押していた視聴者たちの動向が気になる。以前、『魔界転生』や『スリーメン・アンド…』を発見したのはこういう静止させる感性をもつ視聴者たちであり、それが90年前後からのJホラーのある種の怖さを支えている。
 これがまずひとつ。ビデオによって可能になったこと。

■霊の歩み論
 ではそうした静止やせき止めが、映画のなかでどのような位置価値をもち、それを映画への愛に収斂させずに、かといって写真への愛に行き着くのでもなく、心霊写真的に散らせること、そこまでできるかは分からない。
 これはもう出す余裕はないけれども、静止やせき止めを以前紹介したギクシャク論や瞬間写真論につないで、霊の歩み論までもっていくこと。

 軟体の話にはやはりギクシャクの話、硬い体の話をしなければならないと考えてしまう。不恰好でガタガタの歩み、いちおう名場面のみ用意しておこう。

以上、霊ネタ3つ。