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カメラ日和 2007年 01月号 [雑誌]
を立ち読みする。今月号は販売中止のカメラをめぐる特集。クリスマス的小特集もあったが、いまひとつ色合いがたちおきてこない。赤と緑にたいして青と黄という色合いが関係しているのか、そんなことをぼうっと考える。シアン、マゼンタ、イエロー、そのうちマゼンタとイエローが交わらない色合いということか。

■ステレオの巨頭会談
 タイミングが合うこともあるもので、授業やレクチャーでステレオ話の準備をしていたら、学研の大人の科学でステレオピンホールカメラ発売のお知らせをもらう。ヴューアーつき。サイトはここ
細馬さんと赤瀬川氏の対談という実に豪華な記事も掲載されるそうです。私にとってはステレオ界の偉人=異人=巨人の邂逅でこれは楽しみ。

 バックナンバーには探偵スパイセットまである。敵に急襲されたときのための水に溶ける紙、敵を欺くための見えない文字の書けるスパイペン、、、まさに「大人の自由」研究。…敵って誰だ。それも自由。

■セクーラ小論6
 セクーラはつねに、写真の諸慣習を並置させて使用する。互いに矛盾しているばあいもあるそうした諸慣習が、複雑にからみあっているのである。つまり彼は、他の諸芸術実践のように単一の写真モデルを一貫して使用することはない。例えば、コンセプチュアル・アートに見られるように、写真はインデックス的記録に還元されたり、単純化された構造へと還元されたりするのでもないのである。セクーラによるこのような複数の写真のレトリックの同時的な使用は、彼の写真についての説明にも対応している。彼は、コンテクスト的なものとしての写真と現実指示的なものとしての写真とのあいだを往き来しながら写真の意味の不安定性を語っているのである。

 こうしたセクーラの採用するモデルは、写真批評家や美術史家にとってはそれほど魅力的なものではないだろう。彼らが目を向けるのは、もはやデザインの戦略になってしまったフォトモンタージュの美学の矯められたラディカルさなどである。彼らは、表象の労働や労働の表象を反省するという骨の折れる課題を免除してくれる芸術家たちの与えてくれる写真的なものの快、これにならされているのである。

 あるいはもっと具体的に60年代から70年代にかけてのコンセプチュアル・アートでの写真の例を挙げてもよい。とくにルシャやグレアムをここでは比較例にしてみよう。ルシャによるカリフォルニアのガソリンスタンドや駐車場を撮影した一連のアマチュア写真的イメージによる構成。あるいは、ダン・グレアムの写真を考えてみることができる。グレアムは、ポップ・アートによる「現実的」なものへの還元主義的なアプローチとは明らかに対立するような日常生活の「社会的次元」を表現している。グレアムの写真は、社会的なものについて、体系的な調査や一貫性のある分析を行うのではなく、むしろ非連続的でアノミックな状況として世界を描出することで社会的なものを提示する。しかし、被写体の選択のランダムさや非決定性という戦略を採るグレアムの描出する「社会的なもの」は、社会への介入や変革に対しても閉ざされている。これはかつてのドキュメンタリー写真とは対照的である。

 また、ルシャにも見られたことだが、グレアムにも写真のスキルの否定という側面がある。つまり、消費文化のなかの写真ツールという安価なテクノロジーをこれみよがしに使用して写真的なスキルを否定するという戦略がそこでは用いられている。これも、ドキュメンタリー写真による主張の妥当性を否定している。

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