工芸か(タカアンドトシの口調で)

『Moving Panorama』という作品を関テレの番組「ばかじゃ」で見る。作品視聴はここ。時間の差異がもっと入るともっと面白くなるかもしれない。


■デジ漆、工芸か!
漆塗りモデルのデジカメ発売のニュースを見て、漆塗りデジタルも拾っておく。使い込めば使い込むほど味が出る漆を数年でリニューアルするデジタル機器に使用する。ものとその表面とそこに触れる手の問題の素材になる。津軽塗りマウス漆塗装印籠型ipodケース。これは違うけれど薩摩切子を使用した薩摩式電子記憶装置というのもある。とても強そうである。これはソリッドアライアンスの製品。このメーカーの製品は、以前紹介した親指型メモリ(イェ〜イドライブ)をはじめとして本当にツボをついたおバカ商品が多い。今回意味もなくつかまれたのは。これだった。

 これを同社のストラップ型のカメラ付き携帯電話用レンズにしてみてはどうか。「どうか」って言っても別に誰に向けてのものでもないのだが。

■セクーラ小論5

 セクーラの作品において写真への「リアリズム的」アプローチを示す第二の側面が、構造的な変形という側面である。彼は、物語的なシークエンスにしたがって写真を組織しようとする。つまり彼は、すでに信用の失墜したはずの、テクストによる物語や写真のシークエンスという原理を依然として再考し使用するのである。例えばそれは、既存の写真を、各々が規範から逸脱するようなばらばらで開かれた形式をとって任意に配置をするわけでもないし、狭く制限された主題によって決定されたシリーズ的なイメージを蓄積していくわけでもない。
 ブクローは、セクーラの作品が、60年代以降のポップ・アートからコンセプチュアル・アートに至るまでの芸術実践の中で写真を支配していたこの二つの組織的原理から隔たっていることを強調する。例えば、フォトモンタージュの美学の遺産(例えば、ラウシェンバーグによる再導入)、ノイエザッハリッヒカイトの写真の遺産(例えば、ベッヒャー夫妻の作品)、この二つがブクローの念頭にひとまずある。

 したがって、一方でベッヒャーによる、19世紀末から20世紀初頭にかけての工業的建造物の視覚的考古学を中心にしたシリーズ的な組織化が文化的に「解るもの」として受容されるのにたいして、70年代半ばに、現実に存在する労働状況について分析し、それについて物語的なフォト=テクストによって説明を行うセクーラの試みは、明らかに解りづらいものとなっていたのである。
 もうひとつ例を挙げることもできる。もっと初期の作品でセクーラは、サンディエゴの工場の失業者たちを描き出した写真のスライドプロジェクションを行っている。一方でベッヒャー作品が20世紀の産業資本主義の主要な労働の場所について記念碑的な説明を行いつつ、モダニズム的な視覚性を得るために、こうした場所から、労働者を排除しなければならなかったのにたいし、セクーラはこうした排除を批判しているのである。

 セクーラのアプローチは、一面で、ベンヤミンの『写真小史』のなかでの主張に従っているのかもしれない。ベンヤミンは、ブルジョワ的主体の内面性崇拝を乗り越えるための、新たな、政治的な視の方法としての写真について語っている。「人間を写すことを断念することは何よりも難しい」とは、その際に述べられた言葉である。したがって、批判的リアリズムというセクーラの試みは、この「断念」を体系的に克服すること、つまりモダニズム的な制限の美学がおしつけた労働の表象の禁止令の克服を目指しているのである。これは同時に、現在の現実の工業生産の場所や建造物の表象への禁止の克服も意味している。

 さらに言えばこのスライドの円環的投影という提示のしかたは、一方で「古典的」な一枚のフレームに収まった自己完結的な白黒写真に対しても、ヴィデオや電子的テクノロジーによる「現代的」なイメージに対しても、両義的な位置を強調している。前者は、労働者を遊離してモニュメンタルな仕方でその文脈から英雄的に抜き出し、後者は労働者をスペクタクルな犠牲者として窃視症的に、扇情的に表象する、セクーラのスライドはこれを回避する構造を有しているのである。

 セクーラの作品の第三の主要な側面――この側面において60年代から70年代にかけての芸術実践における写真イメージの支配的な用法からの彼の逸脱が明らかになる――は、記号学的な差異と呼ぶことができるだろう。
(以下続く)