ロケットに点火する写真


■身を着ける/身に着ける 2
 のだめに出てくるロケットペンダント
 ロケットにふたたび火が点いているのかいないのか、それは知らない。
 それはさておき、ロケットは、バッチェンが言っていたように、二種類の今ここに不在のひとの直接性を呼び出す道具である。ひとつが生存している恋人や愛しい者たちへの想い、もうひとつが今は亡き者への想いである。後者の例がこれ(納骨ロケットペンダント)。
 そして前者が後者になる可能性も孕むようなロケットもある。それがこれ
 さらにはお守りや護符のような役割を兼ねる真言入りロケットもある。法具化するロケット
 以上四点。

■Forget Me Not 6 
 写真をパーソナルにすること、これが次のまとまりの部分。
 写真における書き込み、とくに署名は、ただの現象の記録以上のものに写真をするための最も手っ取り早い方法であった。たとえば旅の同行者たちが列車や船のパノラマ的写真にひとりずつ文字を書き込む。こうした写真は、ある意味で集合的な著者性を表象するための媒体になっている。ツーリズムがすでに浸透しきっていた19世紀、商業的な記念品をもっと個人や集団特有のものに引き寄せるための摩擦、それが各種の書き込みだったわけである。船上でのロマンスや同じ旅程で共有された感情が書き込みによって残される。

 こうした事例の別の表れが、額に入った刺繍に一箇所だけ写真を挿入するスペースが空けられた記念品の類である。写真への書き込みではなく、既製の大量生産品である布に対して写真が先の署名の役割を担うことになる。こちらでは写真が個人化、固有化するためのメディウムとなる。

また別の例として、ダゲレオタイプのケースに被写体の髪の束が縫いとめられ、写真とともに、裏蓋に手書きのテクストが記されているものがある。そのテクストは、リズムや韻をともなった声に出して読まれることを意図したものであることも多い。ツマリこの場合には、写真を視覚で、ケースとその裏地と髪を触覚で、テクストを聴覚で享受するという立体的な仕掛けが拵えられ、それによって彼女の記憶が伝えられることになる。もちろんそれは実際の彼女の声を知らない私たちにとっては実際の声ではない。しかしそれは少なくとも忘却の恐怖に対するひとつの手段でもあった。

 最初の事例、二番目の事例、そして最後の事例それぞれで写真が占める位置価値は異なる。複製可能な工業製品としての写真、他の複製に対する固有の物としての写真、テクストの想像上の声や布の肌理とあいまって固有なものを構成する写真。それらの例は、写真が記憶を伝えるためには不安定な担い手であったこと、写真に何かが付け加えられてはじめてそれが個人や集団固有の経験を保証してくれるものになったということを明らかにしてくれる事例でもある。
 
 そしてそれが顕著に見られるのが写真アルバムという例なのである。
(以下続く)

■セクーラ情報

セクーラのPerformance under Working Conditionsが到着。これは2003年5月から8月までウィーンで開催された展覧会のカタログ的性格のもの。1970年から2003年までの彼の
20弱のシリーズ作品がコンパクトに図版にまとめられている。付いているテクストは、次の二つ。
ザビーネ・ブライトヴィーザー「ドキュメンテーションとシアトリカリティの間の写真
」、セクーラとブクローの対談、とりあえず後者から。
Photography against the Grainが明日届き、カメラ・オーストリア誌のものを追加すれば、これでようやくセクーラの写真論の全貌が分かることになる。