ステレオという虹


■虹
 PGレクチャー終了。
 今回もさまざまな方に参加していただきました。受講してくださった方、ありがとうございました。そして、企画にあたったスタッフの方々、ヴューアーを作ってくれた方々、司会をつとめてくれた方に感謝しきりです。
 また、機会があると思うので、話にいきます。
 
 この企画、実はギャラリーでふと世間話をしたときのことがきっかけになっている。それは、ラルティーグのステレオ写真について話が及んだ時のこと。目の人である写真家のかたがたが見せた憧憬に満ちた視線だった。平行視的な遠くを見る期待の眼差し。単純に言えば平行視的憧憬、それだった。

 やってみて正直に面白かった。前回の心霊写真話とは違う、でもどこかでつながっている感覚はある。とにかく総勢20数名がヴューアーを覗き、口をあけ、野太かったり、か細かったりする驚きの声をあげ、その満腹感に最後にふうとため息をつきながら、しかも両目の焦点がおかしくなっている様2ダースを見ているのは、見ているほうが幸せになる催しでもあった。

 ステレオというのは虹と似ている。という言葉は帰りに鎌倉で購入した畠山さんの『Two Mountains』の図録を読んでいて思いついたこと。ステレオも虹も、実は誰一人として同じものを見てはいない。前者は一人ずつ隔絶されているからでもあり、スキルによっても光の関係によっても凝視時間によっても、見え方がおそらく異なり、後者は光と立ち位置の関係から千差万別な見え方をする現象だからである。彼らは本当は同じ物を見てはいない。
しかし、ステレオの場合も、そして虹の場合もおそらく、老いも若きも、男性も女性も、知り合いのいないひとも知り合いのいるひとも、斜に構えたひとも正直なひとも、皆が皆、同じように「おぉ」と声をあげる。時差をおきながら見る、ズレを帯びつつ見る、ステレオ視の体験そのものにも現在時制の現出感のなかのギクシャクしたズレの時差がある。見終わって目の焦点がずれた多くのひとたちが、どこかしらステレオを見る以前とは違うようなグルーヴ感を共有している。けっして同一ではないが、つながりあうステレオ的な連帯感がそこにはすでに生じている。いつもとてもせつなくなってしまうが、それにもかかわらず幸せだと感じてしまうのがステレオ講義の感覚なのかもしれない。

 唯一、心残りは、もう少し長く見せたかったこと、もう少し話を展開させたかったこと、そしてもう少し笑いをとりたかったこと。もう3笑いぐらいは入れておきたかった。
 ステレオ素材の体験型レクチャー、こんな感じでよければまたやります。
 というわけでこの企画にあたり、いろいろな物を貸して下さった方々にも感謝です。ありがとうございました。

■ものものの展開
 レクチャーの直前までふたつみっつ出版社の方々と打ち合わせをする。生井さんとも久しぶりにお会いできたし、濃密なレクチャー前だった。

 もの写真論も面白い展開ができそうな予感です。心霊本でもご一緒した長谷さんともお仕事ができそうで、これも今からどんなもの写真本ができるのか、作戦を練っているところです。これはまたこの場所で情報収集やメモを随時あげていくことになると思います。

これが13日分。