目のギアチェンジ


朝、ホテルの朝食用トレイをもって外を見ていると。いやーんと叫びながら全身黄タイツのトラ仕様のおかまさんが目の前をかけていった。さすが新宿。すっかり目が覚める。


■目のギアと鉛筆
  
 ステレオターボのかかったまま、鎌倉に向かう。畠山さんの展覧会に行くため。
 駅からまるで嵐山的な参道を歩いてカナキンビ(神奈川県立近代美術館)へ。
 この展覧会「Draftman's Pencil 製図家の鉛筆」には、二つの「鉛筆」が重ねられている。それはちょうど薄い紙を二枚重ねるようにして別の鉛筆で描いたものを、また別の鉛筆でなぞっているとも言うことができる。建築や建築現場、つまり製図家が描き、それが立体化したものを、写真、つまり自然の鉛筆で執拗に描きなおす。しかし、ただ建築を撮影した建築写真ではない。図面の線とその実現である線の間に、写真がなぞる線が入り込み、写真の引き起こすずれや遅さが、現実において人工的線を見ることの異様さを明るみに出している。

 未見だった作品は、東京タワー、月、汐留、川の連作、アンダー・コンストラクション/大館、モントリオール、アビタ'67、世界の窓、東武ワールドスクエア、森ビル、プレハブ住宅/アルバカーキ、不動の生、伊計島。 
 畠山氏の写真を見ると、いつも見ることのギアが入ってしまう。それは例えばスイスでパノラマ館を訪問した後に起きてくる、目の読み取り作業のギアが入ることに似ている。パノラマ館を出ると現実そのものがパノラマとして起きてくる。ギアが入ることで低速になり、ひとつひとつ検証される現実が生じる。
 例えば、東京タワーと月では、私たちが知識で知っている事物の大きさがそれを外され、大気の層を通して/通さずに手前に向かってくるし、汐留や川の連作では水面というものが帯びる私たちの常日頃気づかない重力への感覚を検証させ、伊計島では上下斜めに目の前を横切る線が重心のバランスを奪い、アンダーコンストラクションやモントリオールでは交差しあい重なり合う線がこちらを途方に暮れさせる複合的な動きを持ち始める。
 そして図録につけられた畠山さんの文章。ある建築家の死と彼の死の直前の建築家の線への抵抗感について、そしてそれをそれでもなお自然の鉛筆で描くことについて、いつものように淡々と写真を撮ること/見ることの営為が語られる。写真を撮ることが引き受けることが簡潔に書いてある。

 でも印象的だったのは、会場に来ていた子どもが素直にすごぉいと言いながら不動の生の前を駆けていた時だった。写真は描くことの自由を必ずしも奪うわけでもなく、新たに見ることの自由を促し、それがどの鉛筆にしても描くことの自由に力を与えるのかもしれない、そんなことを思う。

 一言、お薦めの展覧会。建築空間も古いが面白い。

■諸資料
レクチャーの時にあげたいろいろな資料をあらためて紹介しておく。
1 ラルティーグ100枚セット→
ここ。shop→orderformで入力して送信する。ヴューアーとカードセットを希望の場合ならばCV1を選択し39と入力し、その他必要な事項を入力してクレジットカード支払いをクリックする。たぶんそれで注文でき、2週間ぐらいで品物は届きます。

2 ピープショーセット
これは佐藤氏が紹介したもの。百森町のこのサイトを見れば注文は容易にできます。

3 ヴューマスター
は、3dstereo.comをご覧ください。

またあの時見たあれとそれはどないやねんなどのステレオ関係の情報ご入用のひとはご連絡ください。時間があれば、比較的すぐにご連絡できると思います。

ということでこれが14日分終了。