再開


諸々再開。

■ラルティーグ考
 今度書く論文にラルティーグを盛り込めないか、検討中。全面的にではないにしても、ラルティーグの遅さと速さの奇妙さをどこかに入れたい。というわけでラルティーグ論を探しはじめる。案の定本当にない。どれもベル・エポックを幸せに捉えた幸せ写真家扱いのような気はする。先日紹介したラルティーグセットの編者William Hibbertによれば唯一使いみちのありそうなのが次の二冊。
Jacques Henri Lartigue, Photographer
そしてこれLartigue,Album of a Century
前者はあのゴールドバーグが書いているので信頼がおけそうである。後者は入手困難かもしれない。また、彼がリュミエール社のオートクローム技術を使っていた資料としては次のものが使えるかもしれない。

Autochromes of Jacques-Henri Lartigue

Autochromes of Jacques-Henri Lartigue

悪戯小僧としてのラルティーグをおさえるには、次のもの。
Jacques-Henri Lartigue: Boy With a Camera
これはタイトルでしか内容を推測できないがいちおう印をつけざるをえないもの。
Lartigue: Or The Pleasure Of Photography

Lartigue: Or The Pleasure Of Photography

今年発売になるこれにも期待してみよう。
Reading Boyishly: Roland Barthes, J. M. Barrie, Jacques Henri Lartigue, Marcel Proust, and D. W. Winnicott

Reading Boyishly: Roland Barthes, J. M. Barrie, Jacques Henri Lartigue, Marcel Proust, and D. W. Winnicott

■セクーラそしてロケット
 オクトーバー誌102号所収のセクーラBetween the Net and the Deep Blue Seaを読みはじめる。副題は以前も紹介したように「写真における交通再考」。20年前に書かれた「写真における交通」と対にするとセクーラの立場も明瞭になるはず。
 バッチェンの論文Ere the substanceもざっと読みはじめる。Forget Me Notでのロケット写真が焦点化され、なおかつForget…では紙面上無理だった理論的な可能性が議論されているようである。