Yumingoo

引き続き。論文読み生活。
ティルマンスと映画館、エグルストンとミース。

Yuming
Yumingooというのがある。写真で検索してみると15曲。言っとくけれどユーミンファンでも、ましてやみゆきファンでもない。
 マツトウヤの「写真」は、一般に、古い革のアルバムを開いて卒業写真に見入って懐かしさに滲む視線、色褪せた写真の傍らに飛んでいきたいけれども帰れない(『時をかける少女』)哀惜の念、そんな写真にまつわるヴァナキュラーな受容が言葉にされていると思われがちかもしれない。そういう意味では、『Sweet Dreams』が皆が持っているイメージに最も近い。写真立てに幸福な時点の写真がおさめられている。
 しかし、他の歌詞をよく読めば、『あの日にかえりたい』では写真はすでに散り散りになっているし、『恋人と来ないで』では写真は捨ててもいいことになっているし、『カンナ8号線』にははかない日光写真が登場し、『埠頭を渡る風』では写真は失くされるものである。皆が抱くYuming写真うたは、荒井時代の第一次ブームから松任谷に変わって以後の第二次ブームにかけて連続している。どの時点で写真が破砕喪失されるものかというものではないようである。

 ひとまず『卒業写真』を読んでみよう。
 卒業写真がクラスの集合写真か卒業アルバムであるのは間違いない。そこにかつて恋焦がれたあなたが写っている。しかし、ここから話は一般的なイメージからはずれていく。変わっているのはわたしであり、あなたは変わらぬ面影を維持している。あなたは変わらぬ目で変わるわたしを見ていてと結ばれる。
 ちょうどこれは『木綿のハンカチーフ』の逆なのかもしれない。田舎に居る変わらぬ女性に、都会に行った男性が今の僕を見てくれと現在の写真を送る。二項対立は明確である。これが1975年の歌。
 そして同年に発表されたのが卒業写真。こちらが先行している。こちらは私もあなたも東京ないし東京近郊におり、電車を降りれば学校に通った道も歩くことができる。必ずしも写真は現在と隔絶されているわけではない。写真のなかのあなたは現在と連続しており、私だけが切断されている。木綿ハンと較べると、過去と距離を置こうとしたのは女性だからである。
 そう考えると、過去への哀惜一辺倒ではないことが分かる。
 ここらへんもう少し切れ目を入れて考えてみよう。

ユーミン論が載っているとのことで次も購入。
ユーミン「愛」の地理学ロック微分法