VQ2

■ズバッと
もんたメソッドについて調べる。
パネル芸が広まって久しいけれど、あのパネル的プレゼンや、電車中吊り雑誌広告的なプレゼンはできないか。それを来期に向けて研究中。

■VQ2
 昨日の問いに対してまずこういう答えがある。
 ヴァナキュラー写真とは、素人による、粗野で直裁なものであり、芸術的な生産流通のコードからは外れた制作物であり、コミュニケーション的な側面にその主要な機能があるものだと。ここで気をつけなければならないのは、ヴァナキュラーな様式とヴァナキュラー写真とを混同しないことだ。たとえばエヴァンズの写真は前者であり、後者ではない。あるいは、アウトサイダーアートにおいて写真を使用した作例も、ヴァナキュラー写真ではない。なぜなら、それは――素朴で直裁で粗野であるかもしれないが――芸術的意図を持って最初から制作されているからだ、、、このような回答がひとつめのものである。
 ふたつめの回答は、ヴァナキュラー写真は分類不可能なもの(ノンカテゴリー)であるというもの。写真史は美術史的、モダニズム的価値観をひきずっており、写真の社会史や写真実践の考察はなされる機会が乏しかった。ヴァナキュラー写真とは、こうした二項対立(芸術写真とそれ以外の写真)を以前の写真史から引き継いだ結果であり、後者の枠組に当てはまる。そしてそれは、芸術的な意図を当初は持たず、意識的な表現に基づかないその他大勢の各種写真の集まりのことである。だからヴァナキュラー写真は何であるというよりも、何でないという言い方でしか規定できない。
 みっつめの回答は、ヴァナキュラーという語の用法を概観するものである。この言葉は、もともとは特定の地域や集団において標準語が変化した現象を指すものとして使われていた。そしてこの語は、1960年代後半に建築史家が特定の地域や時代や環境に結びついた、普通のありふれた建築を指して使われるようになる。しかしそもそも建築においてもこの語の明瞭な定義について各論者は同意するにいたっていないし、この語が写真に流用されても、それで定義が明瞭になったわけではない。それでも、辞典類の類で確認できる定義は、
従来この概念に与えられていた地域的な様式という説明はさし引き、無垢な、プラグマティックな、匿名の、芸術的な意図なしの、独学の写真家による、非公式の、自発的な、混乱や不明瞭さを帯びた、という意味が与えられている。しかし、商業的な、職業的写真家によるものを包含するか除外するかについては論争があり、除外する立場のひとびとは、この概念によって私的な空間に位置づけられる写真を指す場合が多い。
 この漠然とした概念をツールにするためにはどのような方法が必要か。あるひとはドキュメンタリーという区分のさらなる下位区分を設けてヴァナキュラーとすりあわせようとする。しかし、ヴァナキュラーという概念は、何が示されているかよりもどのように使用されているかに焦点をあわせるべきである、、、これが第三の回答。

(つづく)