VQ3


ピエール靖子』が終わると思いきや、きょうから英会話が始まる。
ピエール、露出はなるべく控えめに。枚方のポスターはもういいので。。。

■VQ3
シャーカフスキーが企画した展覧会には、ヴァナキュラーについての考察が入り込んでいる、とバッチェンは言う。その際にシャーカフスキーが依拠していたのはKouwenhoven『アート・イン・アメリカ』の議論だった。ヴァナキュラーに関して、シャーカフスキーは芸術的な写真という焦点を補完する限りでこの概念を用いている。しかし、もとのKouwenhovenは両者を明瞭に区別している。これを突くのがジャネット・マルコムである。シャーカフスキーについては『写真家の眼』を参照のこと。マルコムの本は注文。これ。
 Janet Malcolm: Diana & Nikon: Essays on Photography, Expanded Edition
 Kouwenhovenのテクストは、――苦労して入手したのだが――テクスト全体がウェブにもあがっている。これを二章までざっと読む。アメリカにおける美術の問題の基本的設定が学習できる。鍬や鋤や銃や諸々の製作機械のデザインにもこうした問題は波及していくし、カメラや写真というのはこうした問題設定のなかで議論しても面白いかもしれない。また、写真が波及するうえでアメリカ写真以前以後の問題は継続的に考えていくべき問題だと思った。

 で、VQ(ヴァナキュラー写真についてのアンケート)に戻る。
 第二の問いは、folk artとヴァナキュラー写真との差異は何かである。
 回答の最初のものは、両者には外的な類似点は存在するものの、意図において異なっているというもの。高度に熟練した職人が小間物や家具類を手仕事で作る、それは商売、職業として行われることである。このように、folk artでは芸術的な要求なしに作業する個人が製作したという点で、ヴァナキュラー写真に似ている。しかし今日、前者は芸術として、ある規範による承認を受けている。これに対して、後者にはそうした判定者が存在しないし、上記の基準に適合しない。事実そうした対象=写真は、安っぽくちゃちなものがほとんどである。これが概要。
 第二の回答は、両者の関連はあるものの、folk artには市場での需要にこたえる意図が存在する。この点で両者は異なるのではないかと言う。
 第三の回答は、昨今では次第にヴァナキュラーという語を用いてfolk artやアウトサイダーアートを指すようになっている。これは、folk artという用語に内在するさまざまなバイアスに対するひとつの反応なのかもしれない。つまり、folk artという語でこれまで伝統的に理解されてきたさまざまな特質は、実はその制作者や消費者の誤解に基づいているのであり、むしろこれは、アーチストとその受容者とのあいだで共有され、交渉される価値、観念、実践の複雑な網目が表現されているものだと考えるほうがよい。ヴァナキュラーという語は曖昧なのでこういう意味を不充分にしか捉えることができない。
 第四の回答。両者は同一のものではない――もちろんfolk artに写真が使用される場合もあるし、スナップショットはそれこそfolkによるartなのではあるが――。folk artが狭義の場合、つまり大文字で表記される場合、きわめて個人的なものでありながらも芸術的な表現を行う装飾品などをもっぱら指すことになる。これに対して、ヴァナキュラー写真は、芸術ではなく、日常生活についてのドキュメンタリー的、日記的、社会的である、視覚的残滓や破片に等しい。
 第五の回答。両者は視覚文化の同じ連続体の中に属している。しかし両者を一般化するのは危険ではないか。例えば写真とそれ以外の視覚的な表象(folk artと見なされているもの)は、その価値付けや両者への期待、その機能によって、文化的に独特な問題となることであろう。その場合には、両者の結びつきは緊密なものになる。例えばインド写真が例に挙げられる。神を描いた、寺院にある絵や多色石版刷りの絵などの大衆的な視覚的形態と、写真における地域的なヴァナキュラーな美学の特定の形態とがここでは強く結びついている。
 以上がアンケートの概要。これをもう少し面白いものに鋳直す作業をやらないとならない。