VQ4、TS1

■VQ4
バッチェンの議論に戻る。なぜバッチェンが形態学という用語を用いるのかの理由が、先のアンケートからうかがいしることができる。つまり、ヴァナキュラー写真を、科学と芸術というたんなる昔からの写真史的区分にも、あるいはジャンルという区分にも、そして確固たる主体の同一性への帰属にも、その使用の起源への帰着にも収斂しない次元を物としての写真の厚みに託すこと、それが形態学と称される。モルフォロジーという語で意図されるのは、自律的な形態の生成変化の過程ばかりでなく、物が契機になって観者と対象の諸関係が――現象学的な像の考察に見られるような志向関係とは異なる――複数の方向へとはみ出していくこと、これがこの語の意味なのかもしれない。

■長時間露光とスナップショット T&S
を久々に読み返している。ウェブにも部分的に掲載しているが、ワープロ使用時に作成した訳なので、感熱紙の傷みがもうひどくてスキャン読み取りも厳しいほど。だからこつこつ打ち直し作業をする。
 そのついでで少しずつ訳を噛み砕いてアップしていく予定。
 The Tradition Of The New
 冒頭でまず彼はローゼンバーグの著書へのメアリー・マッカーシーによるコメントで話を始める。出来事(事象event)と像(picture)という対立が語られる。彼女によれば、出来事は壁にかけることはできない、像は壁にかけることができる。至極当然のことである。しかし、写真はこの両者の性質を兼ね備えているというパラドキシカルな事態を引き寄せていると言うのである。
 私たちが写真を見るとき、それを出来事として受け取るのか像として受け取るのか、二種類の受け取り方がある。前者は、写真の向こうで動いているもの、生の流れを途中で凝固させて取り出した写真の知覚様態であり、後者は写真の外側ではすでに完了した行程を、これから切り離したうえで現在に引き延ばす知覚のしかたである。それぞれが、固有のパラドックスをはらんでいる。前者の例は、事件を撮影した雑誌写真であり、後者の例は、遺影写真である。それぞれスナップショット的、長時間露光的と言い換えられる。
 写真を観ることにはこの二種類の知覚が共存しており、それが、相互に総合されることはなく、つねに写真の知覚につきまとう矛盾になっている。つまりパラドックスは二重化される。
(つづく)